横浜開港資料館

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「開港のひろば」第116号
2012(平成24)年4月21日発行

表紙画像

展示余話
「写真後景画師(しゃしんこうけいがし)」下岡蓮杖(しもおかれんじょう)父子
-笠原彦三郎(かさはらひこさぶろう)旧蔵資料から-

笠原彦三郎と下岡蓮杖

笠原彦三郎と下岡蓮杖の交友が始まったのは明治36年である。再び彼の随想「大日本写真師の鼻祖(びそ)下岡蓮杖翁と交誼交渉の顛末」によると、笠原の懇願を受けて、同年2月蓮杖の長男(東太郎)が、蓮杖の肖像写真【写真1】を贈呈したことから、2人の交友が始まったという。以後、笠原と蓮杖父子との間で、年賀状や記念品等の贈答が続けられていく。

笠原は、写真界の始祖として蓮杖に深い尊敬の念を抱いており、明治44年の新潟県連合写真大会において「写真王銅像建設の件」を呼びかけるなど、蓮杖の顕彰活動に努めた。銅像建設には至らなかったものの、蓮杖は笠原の企画に感激し、鍾馗(しょうき)と達磨の軸2本を贈った。以下はその際の礼状の全文である。

敬啓、六月五日出之芳札有難く拝見、御熱心を以て御建議の成行早速御報導被成下、拙老身にとり有難く御厚礼申上度、不浅感銘致居候 頓首

明治四拾四年六月十五日        

下岡蓮杖

笠原彦三郎様

追而写真術之進歩逐々高名之方々輩出せられ、誠に喜ハ敷く存られ候、拙老少年之頃狩野家ニ従事せし事有之、中年まで右写真術の為不知不識越年いたし、当時は美術々々と申、絵画も逐々発達いたし候処、昨年ハ東京写真会より拙老八拾九の高齢に相成候ニ付、何か祝意を表せられたきよし、何なりとも所望いたせとの事ニて、当時ハ狩野家の画工も(徒弟皆無ナレバ也)微ニ全国を通じて僅ニ三人(本家・師家と拙老)、其内拙老年長の故を以て、本会より望人を紹介せられ、絹本大は壱尺五寸幅竪物ニテ七円五拾銭、小は壱尺三寸幅ニて金五円として、代料も本会より取纏メ呉られ候ニ付、老人ニ於てハ世話なしに、好きな画を画きながら大分老を慰め呉られたりし、今回も紀念の為メ何か差上度存候へども、右に準じ絹本二葉、大ハ鍾馗、小ハ達磨併せて進呈致し候間、永く御愛玩被成下度候、尚又御同業中又ハ其外とても、年齢ニ愛拙筆御望之御仁も有之候ハヾ、御紹介被成下候ハヽ、尚以有難く大愉快に消光仕るへく、御厚意ニ任せ此段申添候

恐惶敬具

但し目今少々眼気を患ひ居候に付、代筆御用捨被下度、揮毫の儀ハ山水人物御好ニ応し候不悪

晩年の蓮杖の生活の一端が窺えよう。蓮杖が日本写真界の始祖として注目を浴び始めるのが、明治42年の開港五〇年祭前後であり(斎藤多喜夫『幕末明治横浜写真館物語』)、笠原の企画も、そうした流れを受けてのことであろう。

その後、笠原写真館の新築(大正2年)に際しても、蓮杖は軸2本を贈呈するなど、二人の交友は密であった。翌年3月蓮杖の危篤・死去の知らせを東太郎から受けた笠原は、自ら東京の本郷区春木町中央会堂で行われた葬儀に参列するなど、彼の蓮杖に対する思いは格別であった。笠原家には、蓮杖ゆかりの記念品【写真2・3】が今も大切に保管されている。

写真2 鍾馗(しょうき)の図 下岡蓮杖作
(笠原製菓写真館所蔵)
写真2 鍾馗(しょうき)の図 下岡蓮杖作(笠原製菓写真館所蔵)
写真3 蓮杖の葬儀に参列した人々へ配られた記念品
(笠原製菓写真館所蔵)
写真3 蓮杖の葬儀に参列した人々へ配られた記念品(笠原製菓写真館所蔵)

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