横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第116号
2012(平成24)年4月21日発行

表紙画像

企画展
「横浜の海 七面相」出品資料の中から
−絵画・古記録に見る海の歴史−

横浜開港資料館が収蔵する資料の中には、横浜の海に関する資料が多く含まれている。また、当館が調査させていただいた旧家にも横浜の海について記録した資料が多数残されている。ここでは、そうした資料の中からかつての横浜の海の姿を現在に伝える資料をいくつか紹介したい。

群馬県の旧家に残された記録

写真1】は、群馬県伊勢崎市の旧家田島健一家に残された資料で、慶応4(1868)年2月9日に横浜と江戸(東京)の永代橋とを結ぶ航路に就航した蒸気船稲川丸の引き札(広告)である。引き札が刊行されたのは明治3(1870)年7月で、彩色の引き札である。当時の田島家は蚕種(さんしゅ)(蚕の卵)を横浜で外国商人に販売することを生業とし、引き札は明治初年の田島家の当主であった弥平が東京か横浜で手に入れたと考えられる。

明治初年の京浜間では多くの蒸気船が就航し、人びとは近代的な交通手段の出現を歓迎した。そのため、引き札が刊行された当時、経営者の違う8艘もの蒸気船が同航路に就航し、各社は激しい顧客争いを繰り広げていた。引き札は、その内の一艘であったシティ・オブ・エド号が、7月5日に蒸気機関の爆発事故によって沈没したことを伝えたものである。事故は大きなもので143人もの死傷者を出し、人びとは近代的な乗り物が必ずしも安全なものではないことを知ることになった。

これに対し、稲川丸の船主は、稲川丸がシティ・オブ・エド号と違い安全な船であり、事故をおこさないために、時々運行を休み点検をおこなっていると伝えている。引き札は、明治初年に発生した海難事故の悲惨さと蒸気船による海上交通の近代化の歴史を伝えてくれる。

写真1 稲川丸の引き札
(田島健一氏蔵)
写真1 稲川丸の引き札 田島健一氏蔵

 地引漁の図

写真2】は、磯子区の旧家堤真和家が所蔵するもので、明治16(1883)年に磯子村(現在、磯子区)でおこなわれていた地引網による漁獲の様子を描いたものである。堤家は、明治初年に民間では日本で最初に石けんを製造した家として知られているが、江戸時代以来、磯子村で網元を営んでいた関係から地引網の様子を伝える絵が同家に残された。

江戸時代、東京湾内の漁村では、限られた漁業資源を保護するため、各漁村が話し合い、一度に大量の魚介類を獲ってしまうような漁具や漁法を禁止した。この結果、東京湾では伝統的な漁具や漁法だけが使われることになり、新規の漁具や漁法が発展することはなかった。また、そうした規制はその後も続き、明治時代になっても伝統的な38種類の漁法が認められたにすぎなかった。

地引網は認可された漁法の中では比較的大規模なもので、図に添付された文書によれば、網の長さは140間(約255メートル)で、網には300個以上の重りが付けられた。また、地引網を使って獲れる魚介類についても記述があり、鯛・車海老・芝海老・鮃・鮫・鰯・コチなどがあげられている。現在、かつて漁村であった地域は工場地帯や住宅地帯に変貌したが、この絵は現在では見られなくなった明治時代の漁業の様子を伝えている。

(西川武臣)

写真2 地引網による漁獲
(堤真和氏蔵)
写真2 地引網による漁獲 堤真和氏蔵

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