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「開港のひろば」第115号
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資料よもやま話
元イギリス駐屯軍兵士、ヴィンセント家の墓
妻エリザは部隊とともに来浜か
妻エリザは、長女アデリーナが1856年生まれであることから、20歳頃にイギリスでヘンリーと結婚し娘が生まれたのだろう。
当時のイギリス陸軍は兵士の妻子同行を認めており、横浜駐屯部隊もそうであった。その存在は当時の英字紙やイギリス政府文書、兵士たちの残した回想録などに記されているが、実態はよくわかっていない。
第20連隊の楽隊員の手記などによると、部隊は1863年7月、多数の妻子を連れてポーツマスを出港し最初の任務地インドに向かった。カルカッタに到着すると香港行きを知らされ、女性・子ども・病兵・インド駐屯経験兵を残して同年12月、香港に到着。さらに翌64年1月に分遣隊が、7月に本隊が横浜駐屯を命じられ来浜した(大山瑞代「横浜駐屯地の英国陸軍」当館他編『横浜英仏駐屯軍と外国人居留地』東京堂出版、1999年刊所収)。
妻エリザが何時来浜したかはわからない。本隊の横浜移駐時、部隊の大多数の妻子が香港に残されたと記録にあるので(当館編『史料でたどる明治維新期の横浜英仏駐屯軍』1993年刊)、エリザもその中にいたのだろう。その後、8歳のアデリーナを連れ、もしかするともっと幼い下の子どもたちの手も引きながら横浜に上陸し、幕府が山手に建てた兵舎での生活を始めたと考えられる。
1866年の撤退時、30名以上の婦人と36名以上の子どもたちが引揚船に乗った、と新聞は報じた。兵舎には少なくともこの人数の妻子がいたのである。先の楽隊員の手記によれば、横浜からの撤退命令が出ると、墓場のような中国に再び戻ることを恐れるあまり、たとえ二度と祖国を見ることができなくても、多くの兵士が除隊証明を買い取り、横浜に住み着く決心をしたという。
ヘンリーと妻エリザもこの時、横浜に残る道を選び、エリザは夫を助けて息子2人と娘3人を育て、さらに洋装品店も開き、子どもたちと個人商店であった店を大きくした。
妻エリザが開いた洋装品店
前掲『図説 横浜外国人居留地』によると、エリザは1872年に婦人洋裁店を開き、95年頃からヴィンセント・バード商会Vincent, Bird & Co.となり、パリやマンチェスターのファッション・デザイン店の特約店となった。店はずっと山下町85番地にあり、1910年までつづいた。
外国人社会の人名録『ディレクトリー』にはエリザの店の職種をmillinery, drapery and hosiery establishmentと記しているので、ここでは洋裁店ではなく「婦人用帽子・布地・靴下類を扱う店」という意味で洋装品店としておきたい。
長女アデリーナは1880年頃まではこの店を手伝い、やがて息子2人も加わり、1910年頃は次男が経営にあたっていたようだ。
長女と夫を亡くしたエリザはその後、横浜を離れてカナダに渡り、ヴィクトリアで亡くなった。息子たちの墓は山手にはないので、おそらく一家でカナダに渡り、没後、遺族が長女と夫が眠る山手の墓石にその名を記したのだろう。墓地の埋葬台帳にエリザの記録はない。
ヴィクトリアには今でも、ヴィンセント家や娘の嫁ぎ先のケイン家の子孫がいらっしゃるのだろうか。
調査にあたって横浜外国人墓地のご協力をえた。謝意を表します。
今年はヴィンセント一家が横浜に住むきっかけとなった生麦事件から150年目の年である。7月下旬から企画展示「生麦事件と幕末の外交」(仮題)を計画している。ご期待いただきたい。
(中武香奈美)