横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第115号
2012(平成24)年2月1日発行

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資料よもやま話
元イギリス駐屯軍兵士、ヴィンセント家の墓

追悼記事

横浜の外国人社会で読まれた英字紙『ジャパン・ウィークリー・メイル』1907年11月2日号にヘンリーの追悼記事が載った。約半頁を充て来歴から43年間に及ぶ横浜での生活、仕事、家族、葬儀の模様がおよそつぎのように記されている。

1907年10月30日の朝、横浜で胃ガンのため死亡した。1830年、イギリスのソールズベリ(ロンドン南西部)生まれ。1864年、第20連隊第2大隊の上級曹長Sergeant-Majorとして来浜し、山手で駐屯生活を送った。66年の香港撤退時、除隊して横浜の住人となった(36歳)。その後横浜イギリス総領事館内監獄の看守を1886年まで勤め、年金を得て退職した(56歳)。
ヘンリーは、誰よりも日本陸軍の功績につよい関心を持っていた。彼は日本軍をその揺籃期から見続けてきたからである。1864年10月20日に横浜でブラウン大佐率いる第20連隊第2大隊が初の本格的な閲兵式をおこなった際、鎖鎧を身につけた幕府兵1個中隊が加わった(図2)。この後、イギリス式調練が始まり、幕府軍2個大隊が編成されてよく訓練され、第20連隊付となった。彼らを指導したひとりがこのヘンリーであり、もうひとりはルールRule曹長といって、今や本国で国王をガードするイギリス衛士の上級曹長である。日本陸軍はイギリス第20連隊の閲兵場から生まれたと言っても過言ではない。

図2 日英合同閲兵式『絵入りロンドン・ニュース』 1865年1月7日号
図2 日英合同閲兵式『絵入りロンドン・ニュース』 1865年1月7日号

追悼記事−前駐屯地、香港での苦難

当時の香港では熱病が流行り、極東で最も劣悪で、多数の兵士がただ死ぬために上陸した地と言われる程だった。これはイギリス軍事史上、悲惨なエピソードとして記録されている。日本に派遣された第20連隊の屈強な兵士たちも熱病にやられて疲弊していた。墓地にはこの時に死んだ多くの兵士の苔生した墓石が連なって一角を占めているが、人びとの記憶から遠ざかってしまっていた。
この栄光ある連隊の元上級曹長の死によって約半世紀もの間、ひっそりと眠っていたこの兵士らの記憶が蘇った。ヘンリーの遺体は彼らが眠る一角からそう遠くない場所に埋められた。

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