横浜開港資料館

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「開港のひろば」第113号
2011(平成23)年7月27日発行

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展示余話
5度の危機を乗り越えた、たまくすの木

1930年の撤去計画

時系列的には逆になるが、まず前述のアメリカ領事館への移植話の発端とも考えられる撤去計画を取り上げたい。地元紙『横浜毎朝新報』1930年3月8日号に「開港史を飾る名木『玉楠』に取払の運命−英領事館へ市が存置交渉」という見出しで、つぎの記事が載った。

横浜開港史上に重要な一ページをなし、安政元年米使ペリーと幕吏とが神奈川条約を締結した史績名勝地たる日本大通りの名木『玉楠』は、近く英国領事館が本建築に着手する為め取払はれる運命にあるので、市当局では失はれて行く横浜史績の為めに保存方を交渉中

1916年、たまくすは横浜史談会(郷土史研究者の団体)の熱心な活動で、横浜市の史跡名勝天然記念物の「名木」に指定された。にもかかわらず、関東大震災で倒壊した領事館再建のためイギリスが撤去する計画でいること、横浜市はその存続を願ってイギリス側と交渉を始めたことが報じられた。

この記事は一部の郷土史家たちだけでなく、市民にとっても驚きであったにちがいない。たまくすは日本の開国のシンボルとして親しまれていたからだ。例えば図1は1922年12月に発行された子ども向けの「横浜歴史いろはかるた」の「へ」の札だが、「ペルリノ記念ニ茂ル楠木」と描かれている。

図1 「横浜歴史いろはかるた」
図1 「横浜歴史いろはかるた」

記事から3ヵ月後、別の地元紙『横浜毎日新報』1930年6月13日号に「開港と因縁浅からぬ名木『玉楠』」愈々移植 英領事館三間離れて」という見出しの続報が載った。 横浜開港と因縁浅からぬ県庁前英国領事館内の名木『玉楠』は震災の火厄に遭ったが、その後再び青々とした新芽を吹いて郷土史料家を喜ばしていた処、最近英国領事館の復興建築と同時に同国領事よりさきに取払ひの交渉があり、市当局及び郷土史料研究会では貴重な史料の寂び行くのを惜んで保存運動を続け、結局これを現在の場所から約3間海岸寄りに移植して保存する事となった

かつて名木指定に動いた郷土史家たちが再び、たまくすの存続のため横浜市と一緒になって運動した結果、敷地内で移動させることで、存続が決まった。海岸寄りに3間(5.5メートル)離れた場所に移動させることになったと記事は伝えているが、6月13日に実施された移植作業では約10メートル離れた現在の場所に落ち着いた(図2)。当館で所蔵する領事館建築図面にも約10メートルと記されており、後に編纂された『横浜市史稿 地理編』(998頁)でも「約6間」と正しく記されている。

図2 移植中のたまくす 1930年
図2 移植中のたまくす 1930年

冒頭で紹介した32年1月のアメリカ領事館敷地への移植話は、この領事館再建時のイギリス側の撤去計画を前提として考えると、英米間にたまくすをめぐって確執があったことが想像できる。

6月16日の『横浜毎日新報』に無事、移植を終えたたまくすの写真が載った。「危機」は回避された。

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