横浜開港資料館

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「開港のひろば」第111号
2011(平成23)年2月2日発行

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資料よもやま話
「萩原文庫」(洋書)の一般公開にあたって

当館のサトウ関係資料

当館は81年に開館し、今年6月に開館30周年を迎える。横浜が開国・開港後に国際都市として発展してきたという歴史をもつため、開館時から欧米資料の収集に力を入れてきたが、萩原先生には当初よりご協力をいただいた。

とりわけご協力を得たのはサトウ関係資料であった。ご子孫の武田家からサトウ関係資料を譲り受ける際に仲介の労をとっていただいた。当館ではこの武田家の資料を中心にしたサトウの展示を1985年と98年の2回開催したが、どちらの記念講演会でも萩原先生に講師をお引き受けいただいた。武田家からはその後も関係資料の寄贈がつづいている。

日本公使時代のサトウ
日本公使時代のサトウ

また『遠い崖』にも登場する、サトウの親しい友人で英公使館付医官であったウィリアム・ウィリスの文書(コピー)を当館で公開しているが、この文書をイギリスのご子孫から託されたのが萩原先生であった。原文書は先生の仲介で、ウィリス縁の地、鹿児島県歴史資料センター黎明館に寄贈された。

萩原先生の書斎

文庫は、宇都宮市内のご自宅の書斎にあったものである。書斎を訪れたのは亡くなった翌年の2002年5月のことであった。入院中の留守を守っていた宇多子夫人も先生の亡くなる2ヵ月前に他界され、主のいなくなったご自宅は間もなく取り壊されることになっていた。

萩原先生の書斎、2002年5月撮影
萩原先生の書斎、2002年5月撮影
書斎の洋書棚、2002年5月撮影
書斎の洋書棚、2002年5月撮影

2階建て別棟の書斎は、1階洋間が天井まである造り付けの書棚4列で仕切られ、書棚間の2本の通路奥の窓際に引き出しのない机が2台それぞれ置かれてあった。2階はカーペットが敷かれた6畳ほどの和室で、文机が2台あった。図書はおおよそ分類されて書棚に並んでおり、資料のコピーは束ねられたり箱に納められたりファイルされて、先生の端正な字でタイトルや内容が記され、直ぐに取り出せるようになっていた。床には書棚から溢れた図書や資料が積まれていたが、それも整然と置かれ、全体としてきちんと整理がなされた書斎という印象を受けた。

萩原家の快諾を得て、資料類の全てと洋書の寄贈が決まった。仮整理の結果、資料の総件数は1427件にのぼった。内外の1次資料の厖大なコピー、メモ・ノート・原稿類、書き入れのある新聞連載スクラップ帳、関連の公刊資料集と研究論文(多くはコピー)、写真資料も含む若干の原資料と、日記・手帳・手紙・写真などのプライベート資料である。

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