横浜開港資料館

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「開港のひろば」第111号
2011(平成23)年2月2日発行

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展示余話
イセザキ界隈成立前史

1 幕末の吉田新田沼地

開港以前の横浜がどのような地形であったかは、太田久好『横浜沿革史』(1892年刊)の挿図「横浜村外六ヶ村之図」に概略明らかである【図1】。中村川から海へと続く水路の両側にあるのは吉田新田沼地と太田屋新田であるが、太田屋新田は沼地を含んだ「新田」であった。

【図1】横浜村外六ヶ村之図〔部分〕
太田久好著『横浜沿革史』(1892年刊)
○は「沼」、□は「田」、▲が常清寺。
【図1】横浜村外六ヶ村之図〔部分〕太田久好著『横浜沿革史』(1892年刊) ○は「沼」、□は「田」、▲が常清寺。

関内地区にある太田屋新田は、貿易場として開港直後から埋め立てや土盛りがなされ、家並みが建っていった。大規模な吉田新田沼地を開発しようとすれば、同じように埋め立て・土盛りが必要で、明治初期には、ウォルシュ・ホール商会の外資が導入されている。

2 関外沼地の事情

開港50年を記念して出版された『横浜開港側面史』(横浜貿易新報社編・1909年刊)には、「吉田やほ女談」の「常清寺(じょうしょうじ)は溝(どぶ)寺」と題した回顧談が掲載されている。それには開港以前、「今の福富町となっているあたりは、沼のような田のようなところで、鍵の手に細い流れがあって、その水を田に引いておりました」。加えて墓地は「沼のような田のような溝のようななかに」あり、「茅(かや)や葭(あし)が一面に生えていて、それはそれは淋しいところ」であったとされる。【図1】にも常清寺は記され、周辺部は「田」が記入されているが、いわゆる「どぶ田」の類であったとみてよい。

開港後の吉田橋周辺の絵図に、「吉原遊廓地割図」(五味亀太郎文庫「太田之草鞋V」所収)がある【図2】。広く吉田新田沼地と区別するため、吉田橋・常清寺周辺を「関外沼地」と仮称しよう。

【図2】吉原遊廓地割図 五味亀太郎文庫「太田之草鞋III」所収
○が「沼」、▲が常清寺。
【図2】吉原遊廓地割図 五味亀太郎文庫「太田之草鞋V」所収 ○が「沼」、▲が常清寺。

回顧談にあるとおり、常清寺にそって水路が「鍵の手」に流れている。「新川」「中川」のほか、縦横に水路と思われるものが描かれている。

さらに図には「沼」と2箇所記載され、「茅や葭が一面に生えてい」るさまを想像することができる。「墓所」は区別されて描かれているものの沼との境界はおそらく判然としないものであったと考えられる。

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