横浜開港資料館

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「開港のひろば」第111号
2011(平成23)年2月2日発行

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展示余話
イセザキ界隈成立前史

3 関外沼地の開発

慶応2(1866)年の大火を契機に、関外の開発が本格化する。居住を目的とした山手居留地が新たに設定される一方、現在の横浜公園の位置にあって焼失した港崎遊廓(みよざきゆうかく)は吉田橋関外・東側の吉原町に移転、吉原遊廓となる。さらに明治になって関内から隣接する羽衣町に洲干弁天社や劇場の下田座が移り、厳島神社、下田座さの松として再開する。

「沼のような田のような溝のような」関外沼地の埋め立て・土盛りについては、『横浜貿易新報』が昭和7(1932)年に報じた「新門辰五郎大親分が登場 伊勢佐木町を買い取った資料発見」と題した記事が興味深い【図3】。

【図3】新門辰五郎大親分が登場 伊勢佐木町を買い取った資料発見
『横浜貿易新報』昭和7(1932)年12月17日号・第1面
【図3】新門辰五郎大親分が登場 伊勢佐木町を買い取った資料発見 『横浜貿易新報』昭和7(1932)年12月17日号・第1面

記事は、綱島(現港北区)出身の元県会議長飯田助夫によって発見された古文書で、明治5(1872)年7月江戸以来の大侠客・新門辰五郎が飯田の先々代飯田助太夫廣配(ひろとも)と取り交わした証文を内容とする。

飯田廣配は、北綱島村名主であり、地域の産業振興とともに、横浜から下肥(しもごえ)(屎尿)を集めて鶴見川流域の村々に配布する事業、鶴見川・多摩川流域で産出される天然氷を横浜・横須賀・東京・千葉などに販売する事業を展開した地元の起業家であった。横浜の発展を地域振興と結びつけるセンスをもった歴史的人物として、市場村添田知通とともに平成17年度当館企画展示「地域リーダーの幕末・維新」で取りあげた。

証文によると「吉田勘兵衛殿持地の内貴殿〔飯田〕永借の上御埋立被成候地所の内千坪、此度無拠入用に付示談の上、地代金三千五百両」と定めて譲り受け、とりあえず千両払った。残金は追々支払う約束。「右地所へ我等志願の東京浅草寺出張所並に説教所等被建候儀も申入候処、御差支無之被申聞承知仕候」と、希望していた浅草寺出張所・説教所の建立も差し支えないとのことについて承知した、とのことである。

ここで注目したいのは、吉田家の所持地を飯田が「永借」して埋め立て、新門に対してその土地の地権を売ったという関係で、関外沼地の開発に、横浜近郊の名主の資金が導入されていることである。

図4】は明治10年代中・後期と思われる、「横浜名所案内表」(五味文庫「太田之草鞋T」所収)の部分である。いわば横浜見物客向けのガイドツアー案内であるが、その「中等」ガイドをみると、波止場から発して居留地・教会・外国人墓地・元町・浅間山・中華街・横浜公園などをめぐったのち、羽衣町の厳島神社、伊勢佐木町、浅草観音出張所、とまわる。浅草寺出張所が、飯田の埋立地に造られたかどうかは定かではないが、伊勢佐木界隈にあったことはまちがいない。新聞記事は「伊勢ビル」附近と明記されているが、同所は吉田橋を渡った伊勢佐木の入口であるから、飯田助夫が何らかの伝聞を得ていた可能性がある。ただし飯田が新門の目論みを「賭場にする魂胆か」としたのは、うがちすぎた見方と思われる。

【図4】横浜名所案内表〔部分〕
五味文庫「太田之草鞋I」所収
【図4】横浜名所案内表〔部分〕 五味文庫「太田之草鞋I」所収

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