横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第111号
2011(平成23)年2月2日発行

表紙画像

企画展
ライオン講演会と
横浜の口腔衛生普及活動

小林富次郎商店(現ライオン(株)、以下小林商店)の口腔衛生普及活動は、明治後期から戦後にかけて、日本の口腔衛生思想の普及に大きな影響を与えたといわれている。小林商店が行った様々な口腔衛生普及活動のなかで、ライオン講演会を取り上げ、横浜の口腔衛生史のなかで果たした役割を考えてみたい。

小林商店と口腔衛生普及活動

初代小林富次郎(こばやし とみじろう1852〜1910年)が小林商店を創業したのは、明治24(1891)年であった。当初石けんとマッチ原料の取次販売店であったが、椰子油事業とマッチ軸事業を中心に経営は順調に伸び、明治26(1893)年には、石けんの販売を開始した。また当時「ダイヤモンド歯磨」を筆頭に様々な歯磨が販売され、売り上げを伸ばしていたことから、明治29(1896)年、「獅子印ライオン歯磨」の販売も開始した。

富次郎は、ライオン歯磨の販売にあたり、実物見本配布のため楽隊を従えて全国巡回パレードを行うなど積極的な広告宣伝活動を行った。宣伝活動により、ライオン歯磨の名は全国に知れ渡り、特約店の支持も得て、売り上げを順調に伸ばしていった(写真1)。

写真1 神田柳原河岸(かんだやなぎはらぎし)の小林商店
ライオン(株)所蔵
写真1 神田柳原河岸の小林商店 ライオン(株)所蔵

一方明治33(1900)年には歯磨の空袋1枚を1厘で交換し慈善団体に寄附する「慈善券付ライオン歯磨袋入」も販売した。『東京朝日新聞』(明治33年10月22日号)に掲載した「ライオン歯磨慈善券附袋入発売広告」に、富次郎は「ライオン歯磨慈善袋の趣旨」と題する文章を載せている。そこには「(ライオン歯磨慈善券附袋入)の袋を打捨てずして之を溜(た)め置き、最寄の慈善事業に寄贈せられん事を、希望の至(いた)りに堪(た)へず、之(こ)れ実(じつ)に弊店の幸福のみに非(あら)ずして、社会の幸福を増進する一助たれバなり」とある。クリスチャンでもあった富次郎の「事業収益をもって社会事業に奉仕」したいとする強い思いが記されている。

富次郎は、明治43(1910)年12月死去し、富次郎の養嗣子(ようしし)徳治郎(とくじろう)が改名し、二代目小林富次郎(1872〜1958年)となった。二代目徳次郎は、小林商店の経営を歯磨と歯ブラシ専業へと切り替え、広告部を設置し、盛んに広報活動を行った。その一方で、初代より引き継いだ社会貢献の活動を、特に口腔衛生普及の分野で積極的に行った。その一つがライオン講演会の開催であった。

当時は口腔衛生に対する意識が低かったため、講演会の名称を通俗講演会とし、著名な人物を講師に招き、講演会を開催した。講演会は成功をおさめ、小林商店は、講演会活動を本格的に展開することとした。

事業の実施にあたっては、ライオン通俗講演会本部(後にライオン講演会本部)が設置され、理事の井上胤文(いのうえ たねふみ)らが講演会活動を担当することとなった。また東京小石川で歯科医院を開業していた緑川宗作(みどりかわ そうさく1884〜1929年)に、入社して講演会活動に専念するよう要請し、社員として迎えることに成功した。大正2(1913)年2月23日、東京基督教青年会館(現東京YMCA)において、発会式を兼ねた第1回ライオン講演会が開催された。その後東京市内の学校で講演会を重ねた後、地方への巡回講演を行うこととなった。そして同年6月、井上・緑川らが最初の地方巡回講演の地として選んだのが、横浜であった。

当時、『歯之養生法』(はのようじょうほう)(桐村克己(きりむら かつみ)著1879年)に始まり、すでに10冊以上の口腔衛生啓蒙書が刊行されてはいたが、特に普及活動の行われたことのない横浜で、ライオン講演会が開催されることとなった。

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