横浜開港資料館

HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第111号

館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第111号
2011(平成23)年2月2日発行

表紙画像

資料よもやま話
「萩原文庫」(洋書)の一般公開にあたって

「萩原延壽(はぎはら・のぶとし)文庫」(「萩原文庫」)とは、『馬場辰猪』や『陸奥宗光』、『東郷茂徳』、そして『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』を著した歴史家、萩原延壽先生(1926〜2001)が残した資料(多くは先生の書き込みのある内外の1次資料のコピー)と洋書である。亡くなった翌年の02年、ご遺族である萩原先生のご弟妹から寄贈を受け、07年に仮整理を済ませて受贈手続きを終えていたものである。

ようやく洋書839冊の整理を終え、当館閲覧室で一般公開を始めることになった。

萩原先生 1998年、鹿児島にて
萩原先生 1998年、鹿児島にて

歴史家、萩原延壽

『萩原延壽 著述目録と年譜』(萩原延壽の紙碑を作る会編、2002年刊、非売品)によると、萩原先生は1926(大正15)年、東京の浅草に生まれ、戦時下の44(昭和19)年に第三高等学校に入学した。入学時は理科甲類だったが、翌45年文科乙類に転科している。三高時代は寮総代のひとりとして戦後の第一高等学校との野球対抗戦復活に奔走し、応援団の副団長にも選ばれた。演劇にも熱心で、三高文化祭ではドイツ語劇シラー作『群盗』の主人公を演じてもいる。

三高入学時の萩原先生(「萩原文庫」)
三高入学時の萩原先生(「萩原文庫」)

47年に卒業すると東京に戻り、翌年に東京大学法学部政治学科、さらに同大学院に進み、岡義武氏に師事した。大学に学びながら1年間程、中学校教師も勤めている。

国立国会図書館調査立法考査局政治部外務課に勤務していた57年、フルブライト奨学金を得て氷川丸で渡米し、フィラデルフィアのペンシルヴァニア大学に学んだ。フィラデルフィアに到着すると直ぐに、当時、研究対象としていた陸奥宗光同様に関心を寄せていた馬場辰猪の墓を訪れている。

馬場辰猪の墓の傍らの萩原先生(「萩原文庫」)
馬場辰猪の墓の傍らの萩原先生(「萩原文庫」)

58年に新たな奨学金を得てアメリカからイギリスに渡り、オックスフォード大学セント・アントニーズ・カレッジに学んだ。大学では『自由論』で知られる思想史家のアイザイア・バーリンのセミナーに参加するなどした。

当館にとって萩原先生の著作と言えば、やはり幕末に活躍したイギリス外交官、サトウを取り上げた『遠い崖』が真っ先に思い浮かぶが、この留学時にイギリス国立公文書館(パブリック・レコード・オフィス、現在のナショナル・アーカイブズ)でサトウ文書に出会っている。

米英での5年間に及ぶ留学生活を終えて62年に帰国すると、論壇で活発な評論活動を開始した。また66年に「馬場辰猪」を『中央公論』に発表し、翌67年からは「陸奥宗光」の連載を『毎日新聞』夕刊で始め、68年までつづいた。

76年10月、『朝日新聞』夕刊で『遠い崖』の連載を開始した。連載は何度かの休載をはさんで90年12月まで14年間つづき、1947回に及んだ。連載に加筆・訂正して全14巻の単行本刊行が完結したのは亡くなる直前の01年10月のことであった。遺作となった『遠い崖』はその年に、横浜にとって馴染みの深い大佛次郎賞を受賞した。その後、07〜08年に文庫版が刊行され、第14巻には新に詳細な総索引が付された。内外の資料を駆使した精緻な研究に加えて、美しくかつ平易な文章は今でも多くのファンを持つ。

同時期に『萩原延壽集』全7巻も刊行されている。

続きを読む ≫

このページのトップへ戻る▲