HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第111号
「開港のひろば」第111号
|
展示余話
イセザキ界隈成立前史
4 飯田廣配の目論み
慶応3(1867)年6月飯田廣配は、都筑郡恩田村・太棚村ほか12か村開墾のための肥料として、横浜町内太田町・新吉原町の下肥取り扱いを申し出た。また吉原町の下肥は、神奈川青木町源六と横浜町役人と廣配との間で取り扱いを3等分にすることが決められている。幕末期下肥は農業になくてはならない金肥として取引され、江戸では価格が暴騰して騒動にまで発展した。急速に人口が拡大する横浜が生み出す下肥は、地域のリーダーにとって魅力的なものであった。しかし新規参入をするためには、幕府の許可と先行者たちとの配分をめぐった協議が必要であったと思われる。
飯田廣配が下肥事業への参入をはたすことができた背景には、幕府に対しては、都筑郡下の開墾による年貢増加を訴えたことがあろう。そして吉原町周辺の権利者に対しては、埋め立て事業への実績を主張したのかもしれない。飯田がどれだけの埋め立てに関与したのかは不明である。
いずれにせよ、伊勢佐木界隈が「沼のような田のような溝のような」場所から、盛り場として発展することができた基礎には、さまざまな人物の関与があったことは事実である。
(平野正裕)