横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第109号
2010(平成22)年7月28日発行

表紙画像

企画展
資料に刻まれた家の記憶

磯子のボイラー製作会社、禅馬(ぜんま)ワークスの支配人、ブリトン

フランク・ブリトン(Frank Britton)は1879年にイギリス北西部のリバプールで生まれた。大学で機械工学を学ぶ一方、ウィリアム・アダムス(三浦按針)に関する本などを通して日本に興味を抱くようになったブリトンは1904年に日本郵船の技師募集に応募し、採用された。間もなく日露戦争が勃発すると佐渡丸で日本に派遣され、下関でソルター船長の信濃丸に機関長として乗り込んだ。日本海軍の傭船であった信濃丸は五島列島沖でロシアのバルチック艦隊を発見し、打電して日本海海戦での日本の勝利に貢献した。この功績で戦後、ふたりは受勲した。このソルター船長こそリナ・デンティチの父親である。

間もなくブリトンは日本郵船を辞め、技術者としての知識と経験を活かして横浜エンジン&アイアン・ワークスの支配人となった。堀川沿いにあった明治期創設の大きな鉄工所である。数年後、磯子町禅馬(ぜんま)(現磯子区磯子1丁目)のイギリス資本のボイラー製作会社、禅馬(ぜんま)ワークスに移り工場長となった。当時、そのシェアはアジア市場を独占する程の大工場であった。日本人の中で生活することを望んだブリトンは、山手ではなく磯子に家を建てた。

一人娘のドロシーは関東大震災前年の1922年、磯子に生まれた。名前は母、アリスの妹でYWCA(東京)で秘書をしていた叔母の名前をもらった。その叔母は震災で亡くなっている。震災から何週間か経って明治屋の前で友人と人力車に乗ったまま圧死している遺体を義兄のブリトンがやっと発見したという。写真はアジサイの花が写っているから23年6〜7月頃の撮影であろう。

叔母のドロシーと2歳になる前のドロシー・ブリトン 1923年撮影
レディー・バウチャー(ドロシー・ブリトン氏)蔵
叔母のドロシーと2歳になる前のドロシー・ブリトン

ブリトンは1934年に心臓麻痺で急死してしまう。翌年、傷心の母娘は父親の祖国、イギリスに渡った。ドロシーはイギリスやアメリカで学び、戦後、母のアリスと一緒に日本に戻った。横浜時代の思い出の家族アルバムなどとともに関東大震災の記録写真帳3冊も持ち帰ってきた。今回の展示がきっかけとなって当館にご寄贈くださり、初公開となる。

3冊の関東大震災写真帳 1923年〔9〕月撮影
見開き右の写真は、磯子のブリトン家に宿営する憲兵隊とブリトン
レディー・バウチャー(ドロシー・ブリトン氏)寄贈・当館蔵
3冊の関東大震災写真帳

3冊のアルバムには「大正12年9月撮影、撮影者松田理吉」とスタンプが押されている。撮影者がわかる震災のオリジナル写真はたいへんめずらしい。ドロシーによると、松田は禅馬(ぜんま)ワークスの社員でブリトンのアシスタントをしており写真はセミプロの腕前だった、という。禅馬(ぜんま)ワークスがこの頃に発行したカタログを当館で所蔵しているが、表紙や本文に工場内のようすや製造機械の写真が多数掲載されていることから、松田はこのような写真撮影を仕事としていたのかもしれない。

計74枚の写真は禅馬(ぜんま)ワークスの工場内の被害状況から始まっている。工場はブリトンが耐震対策を施していたため甚大な被害は免れた。ブリトンはまた近隣一帯の類焼を防ぐ消火活動でも活躍したという。

松田は近隣の被害情況を撮し、さらに山手の外国人墓地、元町、関内地域、港、大江橋、南区の吉田小学校あたりにも出向いて撮影したようだ。がれきの山、その中をリヤカーを力無く引く人びと、バラックでランプ作りにいそしむ夫婦など復興が始まった横浜のまちの姿が記録されている。退色がすすんでいる上に説明書きがないため、他の震災写真を参考にして正確な撮影地点や時期を確定する作業を進めていきたい。

(中武香奈美)

大西比呂志(フェリス女学院大学)のフランツ・メッガー(ジュニア)インタビューのレポートと、「家族の肖像」(季刊『横濱』神奈川新聞社発行に連載)を参考にした。

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