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館報「開港のひろば」バックナンバー


資料よもやま話2
O. M. プールと息子リチャード

『古き横浜の壊滅』

  O. M(オーティス・マンチェスター). プールは、横浜で関東大震災に遭遇したときの克明な体験記『古き横浜の壊滅』(金井圓訳、有隣新書、1976年刊)の著者としてつとに知られている。

  原書 The Death of Old Yokohama は、地震から40数年を経た1968年にロンドンで刊行されたが、著者が震災後、数週間のうちに書き留めておいたものをほぼそのまま写しとったものだという。それに「破滅以前の横浜」という1章と短い後日談が加えられている。

  1923年9月1日の正午頃、旧外国人居留地のほぼ中央、山下町72番地A(現在、中消防署山下町消防出張所の裏手)のドッドウェル商会にいた著者は、壊滅状態の瓦礫のなかを炎と煙に追われながら自宅のある山手へ、さらに家族とともに湾内の船へと命からがら逃げ延びた。その必死の避難の様子、目のあたりにした惨状、数日間の避難状況が克明に描かれていて、現場に立ち会っているような生々しい体験談となっている。さらに著者自身が撮影した多数の写真が貴重な記録となっている。


プール家の人びと

  チェスターと呼ばれていた著者は当時43歳。ドッドウェル商会の日本の支社や出張所の総支配人であった。当時の横浜の外国人社会は「常に流動的であり、人々は、勤め先の会社によって極東のある港から他の港へと転勤を命ぜられたが、なかには二世代三世代にもわたって横浜に居残った家族もある」(25頁)と記されているように、震災がなければプール家も代々横浜に住みつづけていたかもしれない。

  日本語版に寄せられた回想記によれば、チェスターは1880年シカゴに生まれた。輸入商社で茶の仕入係をしていた父が、年々赴いていた日本や中国に惹かれ、1888年(明治21)に横浜にやってきてスミス・ベーカー商会の茶の仕入係になった。一家は山手に住み、チェスター少年はイギリス系の学校ヴィクトリア・パブリック・スクールに通い、その後、フランス語、日本語、速記、タイプの個人教授を受けた。母と妹がピアノを、弟がヴァイオリンをよくし、一家はさまざまな国籍の人が集うコスモポリタン的な雰囲気につつまれていたという。

「開港のひろば」第88号
2005(平成17)年4月27日発行

表紙画像
企画展
神奈川お台場の歴史
企画展
神奈川台場保存運動の系譜
展示余話
「100年前の横浜−『横浜案内』の世界−」展『神奈川写真帖』の魅力
資料よもやま話1
渡辺修二郎の横浜資料(下)
資料よもやま話2
O. M. プールと息子リチャード

プール家の人びと
次男リチャード・A・プール
GHQ憲法草案作成のメンバー
ヴァージニア州マクリーン
リチャードの経歴
父チェスターの資料
閲覧室から
新聞万華鏡(19)
明治初年の村と新聞
資料館だより

  1895年(明治28)、15歳のチェスターはイギリス系商社のドッドウェル・カーリル商会(のちドッドウェル商会)に入社。アジア各地・ヨーロッパ・アメリカを広く旅行し、独身時代には神戸支店に3年間の勤務も経験して、1918年(大正7)、日本の全支店の総支配人に昇進した。まだ37、8歳の壮年で、大震災の5年前のことだった。

   その間、1916年にドロシー・キャンベルと結婚。アンソニー(震災当時6歳)、リチャード(同4歳)、デイヴィッド(同3歳)の3人の息子に恵まれた。妻ドロシーの曽祖父は初代箱館駐在領事ライス、父W. W. キャンベルは太平洋郵船会社の代理人で、横浜ヨットクラブの「提督」(会長)としてよく知られていた。

   大震災のとき、チェスターの家族と義父母キャンベル夫妻は山手の自宅で被災し、義母の妹メイベル・フレイザーは駅にむかっていたが、幸いにも全員無事だった。チェスターの父は静岡で茶の事業をしており、結婚して上海に住んでいた姉エレノア・メイトランドと息子は軽井沢に避暑にきていたが、いずれも震災の圏外であった。

   プール一家は最初の夜は大型ヨットのアズマ号で、その後カナダ太平洋汽船のエンプレス・オブ・オーストラリア号、さらにエンプレス・オブ・カナダ号へと避難し、4日目にエンプレス・オブ・カナダ号で神戸に向かった。

   その後一家は神戸で2年間を過し、カナダで休暇をとっていた時にニューヨーク支店長となって転勤した。以後1949年にヴァージニアに引退するまで23年間をニュージャージーで過し、3人の息子もそこで成長した。

   チェスターは『古き横浜の壊滅』の日本語版が出たとき、友人のC. B. バーナードが描いた本牧の水彩画を有隣堂へ贈ったが、それは設立準備中であった当館に寄贈されて、今も当館にある。

次男リチャード・A・プール

   その後、高齢だったチェスターが亡くなり、連絡先が不明となってプール家とは音信がとだえてしまっていた。ところが、今から6年前、筆者はたまたま読んでいた本のなかでリチャード・プールの名に遭遇することになった。

   ベアテ・シロタ・ゴードン『1945年のクリスマス―日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝―』(平岡磨紀子構成/文、柏書房、1995年10月刊)に、「横浜生まれのリチャード・プール」という名が出てきたのである。あのチェスターの次男ディックのことではないか。早速、平岡氏(ドキュメンタリー工房)に連絡をとると、仲間の鈴木昭典氏がリチャード・プール本人にインタビューしており、その成果は著書『日本国憲法を生んだ密室の9日間』(創元社、1995年5月刊)に詳しく述べられていることがわかった。こうして両氏のおかげでチェスターの息子の消息がわかり、連絡先も教えていただくことができた。

GHQ憲法草案作成のメンバー

   『日本国憲法を生んだ密室の9日間』は同名のテレビ・ドキュメンタリー(朝日放送)をもとに書き下ろしたものである。同書に生き生きと描かれている1946年のリチャードの姿を簡単に追ってみよう。

   敗戦の翌年1946年の2月、東京の第一生命ビルに置かれた連合軍総司令部(GHQ)民政局では、25名のメンバーによってわずか9日間で日本国憲法の原案が作成された。

   全体を統括する運営委員会のもとに、立法権、行政権、人権、司法権、地方行政、財政、天皇・条約・授権規定に関する7つの小委員会が置かれたが、この最後の天皇・条約・授権規定に関する小委員会の責任者に、階級も低く、まだ26歳という若さのリチャード・A・プール海軍少尉が選ばれたのである。

   「メンバー発表の最後に近くなって、ケーディス大佐があたりを見回して、天皇は君、プール少尉にまとめてもらうと言うんですよ。中佐、少佐、大尉などの位の上の人が出つくしたので、私に回ってきたのです。責任を感じました」とリチャードは回顧している(60頁)。ケーディス氏も「君はたしか天皇と誕生日が同じだったろう? それが君を選んだ理由だよ、なんて言った覚えがありますよ」と証言している(61頁)。たしかにリチャードは1919年4月29日、横浜生まれである。不思議な偶然の一致であった。

  アメリカ側の方針では、天皇制は存続させるが、民主主義のもとで新しい地位を規定することが必要であった。この複雑な問題に取り組んだプールたち担当者は君主制や王政の国の憲法を片っ端から読破したが、一番参考にしたのはイギリスの制度だったという。「天皇の位置づけを〈何ら政治的な力を持たない立場であっても、憲法上では君主として重要な機能を持つ立場〉として打ち出したかったのです」という(122頁)。草案は何度も書き直され、最終的に日本国憲法の第1章「天皇」の条文に収束していったのであった。





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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