1895年(明治28)、15歳のチェスターはイギリス系商社のドッドウェル・カーリル商会(のちドッドウェル商会)に入社。アジア各地・ヨーロッパ・アメリカを広く旅行し、独身時代には神戸支店に3年間の勤務も経験して、1918年(大正7)、日本の全支店の総支配人に昇進した。まだ37、8歳の壮年で、大震災の5年前のことだった。
その間、1916年にドロシー・キャンベルと結婚。アンソニー(震災当時6歳)、リチャード(同4歳)、デイヴィッド(同3歳)の3人の息子に恵まれた。妻ドロシーの曽祖父は初代箱館駐在領事ライス、父W.
W. キャンベルは太平洋郵船会社の代理人で、横浜ヨットクラブの「提督」(会長)としてよく知られていた。
大震災のとき、チェスターの家族と義父母キャンベル夫妻は山手の自宅で被災し、義母の妹メイベル・フレイザーは駅にむかっていたが、幸いにも全員無事だった。チェスターの父は静岡で茶の事業をしており、結婚して上海に住んでいた姉エレノア・メイトランドと息子は軽井沢に避暑にきていたが、いずれも震災の圏外であった。
プール一家は最初の夜は大型ヨットのアズマ号で、その後カナダ太平洋汽船のエンプレス・オブ・オーストラリア号、さらにエンプレス・オブ・カナダ号へと避難し、4日目にエンプレス・オブ・カナダ号で神戸に向かった。
その後一家は神戸で2年間を過し、カナダで休暇をとっていた時にニューヨーク支店長となって転勤した。以後1949年にヴァージニアに引退するまで23年間をニュージャージーで過し、3人の息子もそこで成長した。
チェスターは『古き横浜の壊滅』の日本語版が出たとき、友人のC. B. バーナードが描いた本牧の水彩画を有隣堂へ贈ったが、それは設立準備中であった当館に寄贈されて、今も当館にある。
次男リチャード・A・プール
その後、高齢だったチェスターが亡くなり、連絡先が不明となってプール家とは音信がとだえてしまっていた。ところが、今から6年前、筆者はたまたま読んでいた本のなかでリチャード・プールの名に遭遇することになった。
ベアテ・シロタ・ゴードン『1945年のクリスマス―日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝―』(平岡磨紀子構成/文、柏書房、1995年10月刊)に、「横浜生まれのリチャード・プール」という名が出てきたのである。あのチェスターの次男ディックのことではないか。早速、平岡氏(ドキュメンタリー工房)に連絡をとると、仲間の鈴木昭典氏がリチャード・プール本人にインタビューしており、その成果は著書『日本国憲法を生んだ密室の9日間』(創元社、1995年5月刊)に詳しく述べられていることがわかった。こうして両氏のおかげでチェスターの息子の消息がわかり、連絡先も教えていただくことができた。
GHQ憲法草案作成のメンバー
『日本国憲法を生んだ密室の9日間』は同名のテレビ・ドキュメンタリー(朝日放送)をもとに書き下ろしたものである。同書に生き生きと描かれている1946年のリチャードの姿を簡単に追ってみよう。
敗戦の翌年1946年の2月、東京の第一生命ビルに置かれた連合軍総司令部(GHQ)民政局では、25名のメンバーによってわずか9日間で日本国憲法の原案が作成された。
全体を統括する運営委員会のもとに、立法権、行政権、人権、司法権、地方行政、財政、天皇・条約・授権規定に関する7つの小委員会が置かれたが、この最後の天皇・条約・授権規定に関する小委員会の責任者に、階級も低く、まだ26歳という若さのリチャード・A・プール海軍少尉が選ばれたのである。
「メンバー発表の最後に近くなって、ケーディス大佐があたりを見回して、天皇は君、プール少尉にまとめてもらうと言うんですよ。中佐、少佐、大尉などの位の上の人が出つくしたので、私に回ってきたのです。責任を感じました」とリチャードは回顧している(60頁)。ケーディス氏も「君はたしか天皇と誕生日が同じだったろう? それが君を選んだ理由だよ、なんて言った覚えがありますよ」と証言している(61頁)。たしかにリチャードは1919年4月29日、横浜生まれである。不思議な偶然の一致であった。
アメリカ側の方針では、天皇制は存続させるが、民主主義のもとで新しい地位を規定することが必要であった。この複雑な問題に取り組んだプールたち担当者は君主制や王政の国の憲法を片っ端から読破したが、一番参考にしたのはイギリスの制度だったという。「天皇の位置づけを〈何ら政治的な力を持たない立場であっても、憲法上では君主として重要な機能を持つ立場〉として打ち出したかったのです」という(122頁)。草案は何度も書き直され、最終的に日本国憲法の第1章「天皇」の条文に収束していったのであった。 |