願書を受け付けた神奈川県は配達を許可し、配達を希望する村は横浜からの距離と届け先を横浜活版舎に差し出すことを村々に布達しました。当時、政府は新しい情報伝達手段として新聞を普及させるべきであると考えており、神奈川県も横浜活版社の計画に積極的に関わったと思われます。
しかし、農村部での新聞普及は必ずしも順調ではなく、6月7日に記された文書(前掲、鈴木家文書)には、財政規模の小さな村には購読料を負担できないと考える村もあると記されています。そのため、神奈川県は神奈川宿の役人をつとめていた鈴木源太左衛門に配達希望の村々を取り調べるように命じています。
以回章得御意候、然は別紙願書之趣、新聞局江庁ヨリ願書御聞済相成候処、新聞局ニ而は御支配村々一村毎ニ配達致度望之願出ニは候得共、小村ニ而は壱ヶ月廿四匁ニ而も出銀迷惑之村方も可有之間、全ク配達受度村々取調可申出候間、小子出港御用席県庁ヨリ被仰付候間、乍御手数最寄々々配達受度村名御取調至急小子方迄文通ニ而被仰越候様奉願上候、以上
六月七日 神奈川宿
鈴木源太左衛門 |
文書の効果もあってか、6月16日付の『横浜毎日新聞』1面には、神奈川県庁の許可を得て農村部に送る分を含め、毎日総計2千部を越える新聞が配送されるようになり、農村部も都心部と同様に時勢の開化がすすんでいると記されています。
(上田由美)
|