企画展
神奈川お台場の歴史
「御開港横浜正景」当館蔵 幕末に刊行された。左下の海中に突き出した五角形の構造物が神奈川台場。中央の市街地が開港場。
東京湾内に台場(砲台)が築かれるようになったのは19世紀に入ってからで、西欧諸国の黒船が日本の沿岸に頻繁に姿を見せるようになってからのことでした。この時から幕府は防衛のため、自ら台場を築くと同時に諸藩に対し海岸の警備と台場の築造を命じるようになりました。
有名な台場としては、現在の東京都港区の海岸部に築造された品川台場(レインボーブリッジのある地域に築造された台場)がありますが、このほかにも全国には数え切れないほどの台場が造られました。
神奈川台場も幕末に築造された台場のひとつで、現在の横浜市神奈川区の海岸部に、松山藩(現在の愛媛県松山市に城を持っていた藩)が万延元年(1860)に幕府の命令で造りました。残念ながら、現在では周辺部の埋め立てが進められ、かつての景観を知ることはできません。しかし、この台場は横浜市域唯一の台場であり、横浜市の貴重な史跡になっています。
ところで、神奈川台場がほかの台場と違っていた点は、この台場が開港場に付随する施設として築造されたことでした。もちろん台場が軍事施設であることには変わりがありませんが、神奈川台場は諸外国の外交団が来日した時や外国の国王・大統領の誕生日などに儀礼として祝砲を発射する施設として利用されました。
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