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館報「開港のひろば」バックナンバー


企画展
神奈川お台場の歴史


「御開港横浜正景」当館蔵 幕末に刊行された。左下の海中に突き出した五角形の構造物が神奈川台場。中央の市街地が開港場。


 東京湾内に台場(砲台)が築かれるようになったのは19世紀に入ってからで、西欧諸国の黒船が日本の沿岸に頻繁に姿を見せるようになってからのことでした。この時から幕府は防衛のため、自ら台場を築くと同時に諸藩に対し海岸の警備と台場の築造を命じるようになりました。

  有名な台場としては、現在の東京都港区の海岸部に築造された品川台場(レインボーブリッジのある地域に築造された台場)がありますが、このほかにも全国には数え切れないほどの台場が造られました。

神奈川台場も幕末に築造された台場のひとつで、現在の横浜市神奈川区の海岸部に、松山藩(現在の愛媛県松山市に城を持っていた藩)が万延元年(1860)に幕府の命令で造りました。残念ながら、現在では周辺部の埋め立てが進められ、かつての景観を知ることはできません。しかし、この台場は横浜市域唯一の台場であり、横浜市の貴重な史跡になっています。

  ところで、神奈川台場がほかの台場と違っていた点は、この台場が開港場に付随する施設として築造されたことでした。もちろん台場が軍事施設であることには変わりがありませんが、神奈川台場は諸外国の外交団が来日した時や外国の国王・大統領の誕生日などに儀礼として祝砲を発射する施設として利用されました。

「開港のひろば」第88号
2005(平成17)年4月27日発行

表紙画像
企画展
神奈川台場保存運動の系譜
展示余話
「100年前の横浜−『横浜案内』の世界−」展『神奈川写真帖』の魅力
資料よもやま話1
渡辺修二郎の横浜資料(下)
資料よもやま話2
O. M. プールと息子リチャード
閲覧室から
新聞万華鏡(19)
明治初年の村と新聞
資料館だより

 つまり、この台場は国際都市横浜を支える重要な役割を果たしてきたことになります。また、台場の築造には多くの人びとが関わりましたが、横浜市磯子区の旧家堤真和家からは台場築造に使用するための岩塊を磯子の山から切り出したことを記した古記録が発見されています。また、保土ヶ谷宿の名主をつとめていた苅部清兵衛が台場築造費を幕府に献納した古記録も残っています。

  こうした記録からは、市域の住民がさまざまな形で台場と関わっていたことが分かります。さらに、台場の警備にあたった藩士や兵士の様子を記した記録、幕末から明治時代の台場の様子を描いた絵地図も残っています。こうした記録から現在では土中に姿を消した台場の姿を再現することもできます。
震災と戦災で多くの史跡や歴史資料を失った横浜市にとって、土中とはいえ貴重な史跡が残されていることは大変喜ばしいことであり、展示をきっかけにして台場への関心が高まることを願っています。

(西川武臣)





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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