「地割ノ図」は標題の下に署名「朶撫流」と押印があり、様式や右肩上がりの特徴的な字体から、「近傍之図」と同時期に渡辺が筆写した地図と推定出来る。本図も、『横浜市史稿』附図編に復刻された。当館蔵五味文庫に、これと類似の地図がある。旧蔵者の『家蔵横浜文献目録』は「横浜之図 (神奈川奉行所)御普請役市村貫吉写図」と記す。他に、市村が慶応元〜2年に筆写した絵図や役宅図、手当書留等があり、本図も慶応期の写しと思われる。渡辺本に較べ書込や附箋など情報量が多く、渡辺本の元図だったかも知れない。
「真田家固ノ図」「退帆ヲ観ル図」は、ペリー来航当時の騒動を描いた風俗画だが、同館所蔵の「神奈川宮河岸ノ図」「鶴見橋ヨリ望異船図」も、印影こそ無いが、これらと一連の渡辺の旧蔵史料と思われる。
図書館の収集時期
それでは、いつ、どの様な事情でこれら史料が横浜市の図書館に収蔵されるに至ったか。同館に収集経緯に関する記録は無いという。
明治42年(1909)、横浜開港50年記念史料展覧会が開催された。これは、開国開港史料を体系的に集めた、恐らく我が国で最初の展覧会と思われる。渡辺は、17世紀の長崎出島図はじめ多くの貴重な渉外史料、文献、横浜絵、瓦版、地図、新聞雑誌を出品したが、本稿で紹介している史料は含まれていない。
横浜市中央図書館の前身、横浜市図書館は大正10年(1921)六月に仮設館で閲覧を開始した。開館直前の同年2月『横浜市文献目録』(同館建設事務所)に「近傍之図」「地割ノ図」はなく、関東大震災の翌13年同館『横浜古図錦絵展覧会出陳目録』に、初めて登載された。渡辺が震災で蔵書を焼失した図書館に寄贈したものか、或いは図書館が購入したのか。目録によれば、両図は開港初期の絵図錦絵8点と共に1本に軸装され、昭和6年(1931)の『本館所蔵横浜開港時代参考資料目録』にも、同じ形態のまま記載されている。そして翌7年、両図は『横浜市史稿』で広く紹介された。
また、黒船騒動を描く風俗絵画は、管見では昭和戦前期の目録類に見出せず、昭和29年の蔵書目録『開港関係資料目録』が最初となる。
「近傍之図」の成立は、説明書や資料目録等から、少なくとも市制施行以降に属し、明治後期か或いは関東大震災頃まで下るかも知れない。
一方、風俗画の作成時期、地図との関係、図書館の収集経緯など不明だが、その成立年代については絵画史からの検討も期待したい。
渡辺のその後
退官後の著述業という以外、渡辺の動向は余り明らかでないが、昭和7年(1932)8月から17年5月官制廃止までの約10年間、維新史料編纂会委員を務めた。この間、『歴史学研究』15年11月号に「鹿児島の対外戦闘並に償金交付の始末」を寄稿、文中サトウの直話を披露している。編集後記に「渡辺翁は明治維新の生きた体験者であり、実に生きた明治史ともよぶべき方である」、論文掲載には原平三・石井孝両氏から協力を得たとある。石井は、戦後『横浜市史』常任編集委員として港都横浜の歴史を叙述する。
成稿にあたり、横浜市中央図書館の久野淳一氏から多大なご協力、ご教示を賜りました。
(佐藤 孝)
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