明治43年水害の影響
四大字の代表が陳情活動を続けていた明治43年8月、2個の台風が東日本を襲い、関東地方は未曾有の豪雨に見舞われた。鶴見川流域でも8月前半だけで500ミリを超える雨量を記録し、多摩川の氾濫水と相まって中流域は広い範囲で浸水した。
この事態を受けて武蔵電鉄は再び実地測量を行い、(1)日吉村南加瀬を通過する路線(甲線 基本線より南側)と、大綱橋付近を通る路線(乙線 基本線より北側)の2路線を新たに計画に加え、基本線・甲線・乙線のいずれを採用するかの比較検討に入った(前掲『横浜貿易新報』)。地元では、鉄道敷設を地域振興の契機と捉えるか、それとも水害助長の要因とみるかの賛否両論が起り、会社の路線決定を注視していた。
そうした中、水害の翌年(明治44年)1月、矢上川沿岸の日吉村大字矢上の住民等は、甲線が敷設されると、矢上川と鶴見川の合流点を鉄橋が塞いでしまい洪水の被害が増すとして、甲線反対の声を挙げた。南北綱島でも直ぐに協議会が開かれ、矢上の住民とともに甲線に反対し、県庁と会社に申立を行うことを決めた(飯田助夫日記1月16日)。
積極的な敷設論の登場
その一方で1月28日の南北綱島の協議会は、「武蔵電気鉄道布設ハ大綱橋付近ノ比較線ヲ歓迎スルコト」を可決した(飯田助夫日記)。矢上川合流点よりも上流の大綱橋付近への架橋(乙線)は、排水設備を整えれば甲線よりも遙かに洪水の被害が少なく、また土地の発展にも繋がるという見通しがあったからだと思われる(「竹生文書」E−43)。さらに飯田助夫等は、会社に対して「南北綱島地内へ停車場設置の件」を盛り込んだ意見書を携えて2月1日に会社を訪問、乙線の採用を求めた(飯田助夫日記)。また同年4月会社側に対して、大綱橋付近は神奈川県が鶴見川の河道拡張工事を計画中なので用地買収や建物移転も容易であると、乙線敷設がコストの面からも有利である旨を記した意見書を提出した(「竹生文書」E一06)。
東横線の開通
会社側が甲線に路線を決定したのは、翌明治45年6月であった。矢上・南北綱島の要求は受け入れられなかったが、彼等は強硬な敷設反対運動を起こすことなく、充分な排水施設を整備させるよう神奈川県に求めた(「竹生文書」E−44)。
その後武蔵電鉄は建設資金の調達が進まず、工事も進捗せぬまま、大正13年商号を変更して東京横浜電鉄となった(東京急行電鉄株式会社編・刊『東京急行電鉄五十年史』、1973年)。東横電鉄は再度測量の後、現在の大綱橋付近を通るコースを採用して用地買収を開始したが、その過程では、土地の買収価格の多寡に人びとの注目が集まり、鉄道敷設に伴う水害助長を懸念する声は全く影を潜めていった。大正15年2月丸子多摩川〜神奈川間が開業し、鶴見川を渡る東横線は、大正堤の桜や周辺の桃畑とともに、中流域における名勝の一つとなった。
本稿作成にあたり、飯田助知氏と竹生寿夫氏にお世話になりました。末尾ながら深謝申し上げます。
(松本洋幸)
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