日本問題専門家として活躍
1940年10月、『アドヴァタイザー』が日本政府によって『ジャパン・タイムズ』に吸収合併させられると、フライシャー一家は翌月、離日した。アメリカに帰国したウィルフレッドは『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』などで極東問題を論じたが、UPのマイルス・ヴォーンなど滞日経験のある他のどの記者よりも最新の日本事情に通じていたので、その日本情勢分析はもっとも的確なものであったという(前掲メイ論文、116〜7頁)。
帰国翌年の1941年、ウィルフレッドは滞日回想録『火山列島』を出版した。序文の日付が同年7月20日とあるので、刊行は日米開戦の数カ月前となろう。
「…この本は、この10年にわたって形成されてきた全体主義国家、日本に関して叙述する。…過去に類を見ないような今日の世界の急激な変化は、まったく予断を許さない。今まで経験したこともない変革がアジアにおこり様相を一変させてしまうかもしれない、それはいつ、いかなる場所でおきてもおかしくなく、この本が印刷にかかる直前かもしれないという思いから、できる限り日本で実際に経験した事実だけを記述するにとどめた」と序文にある。劇的な日米開戦と、その後のアジアでおきた諸「変革」を予見したものと言えよう。
開戦後、1942年に『我等が敵、日本』Our enemy Japan を刊行し、43年にはアメリカ陸軍作成の軍事教育用35ミリ映画の脚本である『日本兵』The Jap soldier の編集に協力した。また戦時情報局OWIのヨーロッパ・アジア向け短波放送に関わった。45年、日本が降伏すると、いち早く『日本について為すべきこと』を刊行し、天皇制、占領政策、武装解除など、新たな問題について知日家としての見解を表明した。
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