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館報「開港のひろば」バックナンバー


二つの村誌

『吉田沿革史』は、著者藤澤三郎の曾孫であり、曽祖父と同名の藤澤三郎氏が所蔵されている。美濃版で全2巻、1巻388頁、2巻404頁である。第一巻の巻頭に、写真で紹介する編者藤澤三郎の肖像画が挿入されている。また藤澤家には、同じく三郎が編纂した『尾花集』天・地全二巻も保存されている。明治天皇葬送の諸行事や、江戸時代の諸制度などをまとめた『尾花集』は、『吉田沿革史』と同様、美濃版で、天は370頁、地は357頁である。

『吉田沿革史』壱・弐 藤沢三郎氏蔵
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『尾花集』天・地 藤澤三郎氏蔵
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「開港のひろば」第79号
2003(平成15)年2月5日発行

企画展
「郷土を誌(しる)す
−近代横浜・神奈川の地誌−」
企画展
『吉田沿革史』と『吉田誌』

藤澤三郎
展示余話
旧家に残された資料から
−橘樹郡茶業組合について−

人物小誌
関東の大遊園地・花月園と平岡広廣高
資料よもやま話
港で働く人びと
−昭和8年(1933)の調査から−
閲覧室から
新聞万華鏡(11)
資料館だより

 一方『吉田誌』であるが、ここで紹介する『吉田誌』が、前述の『維新前の米制』の中で、新田村役場所蔵として引用されている『吉田誌』と同じものであるかどうかは不明である。しかし本資料は、新田村の学務委員などを勤め、『吉田誌』の校閲にも参加している相澤眤宗(ちかむね)家に伝わっている。体裁は、『吉田沿革史』より小さく、半紙版である。全4巻で、第1巻248頁(記述は247頁まで)、第2巻286頁、第3巻269頁、第4巻301頁(記述は200頁まで)である。


『吉田誌』全4巻 相澤雅雄氏蔵

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 『吉田沿革史』・『吉田誌』の序によれば、藤澤三郎は1910年(明治43)に起草したとあり、2年後の1912年(大正元)に編纂を終えている。

 二つの村誌の内容を比べてみたい。『吉田沿革史』は、目次が大小合わせて238項目ある。一方『吉田誌』の目次は、216項目である。両者に共通する目次の項目は、序や目次といったものを含めても、約150項目であり、『吉田沿革史』の約3分の1の記述は、『吉田誌』には見られない。

 『吉田沿革史』と『吉田誌』に共通する内容は、地名についての考察や、郷土の英雄や史蹟名勝についての記述、地租改正事業、教育、日露戦争、杉山神社などについての記述である。鶴見川と早渕川に関する普請や水論・洪水の記録については、両資料に共通する項目も多いが、『吉田沿革史』にあって、『吉田誌』に無いものも35項目ある。旱魃や古代から江戸時代末までの税法についての記述、村内の寺院、道路の改修については、『吉田沿革史』には見られるが、『吉田誌』には見られない。特に1910年(明治43)の大洪水については、『吉田沿革史』に、水害の状況、被災直後の盆祭りの様子、収穫、各地の被害状況等、詳細に記されているが、『吉田誌』には全く記載されていない。一方『吉田誌』にあり、『吉田沿革史』には無い項目もある。それらは、「日清戦争」・「都筑郡・橘樹郡農兵取立ノ事」など、61項目に及ぶ。

 各項目内の記述にも違いがある。例えば両資料には、「無格社村社ニ合祠」として、1908年(明治41)若雷神社に、近隣の無格社15社を合祀したことが記されている。ほぼ共通の記載の後に、『吉田誌』には、合祀の後、残された神社の跡地を払い下げ、農地にすることに無情を覚え、吉田で行なった合祀は、時期尚早の策であったとの記述がある。しかし『吉田沿革史』には、この記述は見られない。

 以上のことから、両資料の内容が同一ではなく、一方の資料が他方の写本ではないことが分かる。

 なお、両資料とも、欄外に「藤澤」の印と校訂の内容を記した書込があり、三郎が校訂をしたことがうかがえる。

 『吉田誌』序には、「神奈川県武藏国都筑郡新田村吉田に於て更に記録を編纂するに方り故を温ねて新しきを知り国家盛衰事物の興亡を審にし近世に及んとす」とある。凡例には「年長ナルガ故ニ古今ニ通シ見聞記憶モ多カラント、茲ニ編纂ノ企業ヲ托セラレママヒニ執筆スルニ至レリ」ともある。

 また『吉田沿革史』には無いが、『吉田誌』には校閲者名24名が記載されている。

 さらに、記載されている内容は同じであるが、『吉田沿革史』では項目名が「村方の委依ヲ請テ別ニ村誌ヲ編纂セシ時筆者ノ辞」、『吉田誌』では「村誌ノ編修ニ付て」となっている項目がある。『吉田沿革史』にある「別ニ村誌ヲ編纂」する村誌は、『吉田誌』のことであろう。

 『吉田沿革史』および『吉田誌』の編纂の経緯は不明である。しかし両資料の内容をみた限り、成立の経緯については、『吉田沿革史』に比べ『吉田誌』は、より公的な目的をもって編纂されたものと考えられる。

 なお『吉田沿革史』には、「吉田村ニハ旧書類ノ煙滅シタル事由」として、「明治五年に一村一戸長と成り、其新戸長に引継ぎたる帳簿は、只当時間に合さへすれはよひと言趣旨で当座の書類を渡し、旧書類は依然として前の名主方へ残したものだ、(中略)役人の移動転々する毎に旧書類は煙滅してしまった」とある。しかしこの項目は『吉田誌』には見られない。村役人が行なうべき書類の継承が適切に行なわれていないという批判を、公的な記録に留めることは避けたのかもしれない。

 吉田村は、鶴見川と早渕川の合流地点に位置する。豊かな耕地と水源に恵まれながら、河川の氾濫により疲弊することの多い地域であった。『吉田沿革史』・『吉田誌』には、江戸時代以来の水論・堰堤出入などに関する資料が数多く引用されている。『吉田誌』の凡例には、「旧訴訟等類訴状無クシテ一件示談内済ノ証拠多々アルモ其訴状今日如何ニ尋ルニモ更ニ無シ、遺憾ナカラ旧書発見丈ケニ止ム」とあり、編纂にあたって、三郎は、実際に見ることの出来た資料のみを筆写したことがわかる。それらの資料の多くは、他に見る事の出来ない貴重な資料である。

 前述したように、1910年8月の洪水についての記載では、洪水時の天候・浸水家屋の状況、洪水時の人々の様子などが記されている。ちょうど三郎が『吉田沿革史』・『吉田誌』を編纂していた時期とも重なり、記述は一層詳細で生々しい。

 また、三郎が筆生として参加した地租改正事業についても、参加した村役人が、算盤や帳づけに上達するようになったことや、急いで行なった測量事業のため、十分な地租改正図面が作製されず、後年に大きな問題を残した事などが語られている。同じ港北区新吉田町の加藤憲一家文書(複製版で閲覧可)によっても、このことは裏付けられる(平野正裕『「横浜の近代農村」展展示資料から』『開港のひろば』第43号)。『吉田沿革史』・『吉田誌』は、吉田に住む人々の思いと資料を今に伝える貴重な地誌である。今後この地域の歴史を知る上で、欠くことの出来ない資料であろう。両資料は、複製版で閲覧可能である。是非閲覧室でご覧頂き、ご活用頂きたい。

 最後に、展示への出陳および複製での閲覧公開をご快諾いただきました、所蔵者の藤澤三郎氏・相澤雅雄氏に、心からお礼を申し上げます。

(石崎康子)





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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