横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第146号
2019(令和元)年11月2日発行

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資料よもやま話
横須賀製鉄所の新政府への移管とフランス海軍

護衛艦ゴエランの来航

4月26日、ゴエランがサイゴンから横浜に到着した。3月に起こった堺事件(堺で土佐藩兵とフランス海軍兵とが衝突し、フランス側に死傷者が出た)への援軍として、オイエ提督が派遣したものだった。

ロワは、中国への異動が決まったキャン=シャンの後継として、このゴエランを横須賀湾に派遣することにした。

ゴエランの存在は、ここ横浜では必須ではなく、必ずしも、さらなるよい効果を生むとは思えないので、現在、横須賀に派遣しているキャンシャンを揚子江に派遣し、その代わりとしてゴエランを横須賀に派遣するつもりだ。天皇が選任した、横須賀と横浜の施設を管理する官吏はまだ、当地に到着していない。大坂を出発したという報せは、しばらく前に来たのだが。次に到着する軍艦フラーム(Flamme)が持ってくる通知を待って、キャン=シャンをコーチシナに送り返したい。 日本のこのような現状では、実際のところ、すぐに自由に使える護衛艦が1隻もないという状態でいることは不可能だ。たとえ今日、これ以上ないというくらい平穏な状況下にあるとしても(日本の南方や北方で起こっている問題で我々が不利益を被るという事態にまったく無知ということなのだが)、明日は、不利益が我々を待ち受けているかもしれないのだ。(5月1日付、横浜からの報告)

東久世と鍋島の横浜到着が遅いため、キャン=シャンの揚子江派遣を優先せざるを得ないロワは、ゴエランを交代艦とすることにし、その最終判断となる指示を運んでくるフラームの到着を待った。

ゴエランが東久世と鍋島を横須賀に輸送

5月9日、東久世と鍋島が横浜に到着し、旧幕府官吏から横浜の行政権を平和裡に移管を受け、つづいて、横須賀製鉄所の移管に着手した。5月22日、1カ月前に横浜に到着したゴエランでふたりは横須賀に向かった。製鉄所の移管は無事、終了し、新政府下での事業の継続が決定した。

5月22日、フランス全権公使の要請を受け、私[ロワ]はこの2名を横須賀に輸送するためにゴエランを派遣し、ロッシュ公使と私が付き添った。横須賀の海軍工廠を訪ねると、かれらはまったく当然であるが、この工廠に関心を示し、公使に対して公式の書類で、新政府からの新しい指令が発せられるまでは、海軍工廠の事業はこれまで同様の条件下で、つまり全フランス人職人をそのまま、日本人職工は約半分を雇って継続となった。 この話し合いは成功裡に終わったが、ロッシュ公使は新体制が落ち着くまでゴエランを横須賀湾に留めておく必要があると判断し、私もその判断に賛成して公使の要請にすぐ同意した。(5月26日付、横浜からの報告)

ロッシュの要請を受けたロワはオイエ提督の指示を待たず、東久世と鍋島を輸送したゴエランを5月2日に離日したキャン=シャンの後継として横須賀湾に停泊させたのである。なお、この報告の一部は前掲のラウル論文でも紹介されている。

ゴエランの交代

6月7日、ロッシュの後任の全権公使ウトレー(M. Outrey)が仏商船で横浜に到着した。フランス外交代表はロッシュからウトレーへと代わり、ロッシュは同月23日、離日した。

この交代の最中の6月19日、ロワが待っていた砲艦フラームがサイゴンから横浜に到着し、ロワは以下の報告のとおり、ウトレーの賛同を得て、ゴエランの交代を決めた。

フラームはサイゴンから横浜まで割とスムーズに24日間の航海で到着した。私の傘下に加わったこの軍艦の状態はとても良好だ。 先の報告書で述べたとおり、フラームが携えて来た指令を受け、護衛艦ゴエランをコーチシナ総督の元に戻すことにし、6月23日、ゴエランは帰還の途に就いた。さらに私は、本日6月25日から早速、代わりの第一軍艦[フラームか]を横須賀に派遣せざるを得なくなった。新任公使ウトレーも、これまで守ってきた我々の権益を引きつづき守るため、我が軍艦の1隻を横須賀港に継続して派遣し、その存在を示すことに賛同した。(6月25日付、横浜からの報告)

以上が、横須賀製鉄所の旧幕府から新政府への移管前後に、横須賀湾へフランス軍艦が派遣された経緯である。

(中武香奈美)

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