横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第146号
2019(令和元)年11月2日発行

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企画展
横浜市中消防署100周年記念
横浜の大火と消防の近代史

日本初のガソリンポンプ消防自動車「メリーウェザー号」
大正期 増田平氏蔵
日本初のガソリンポンプ消防自動車「メリーウェザー号」 大正期 増田平氏蔵

火は人びとのくらしを豊かにする一方、時として日常生活を破壊する火災になります。特に多くの人が集まる都市では、大規模な火災、「大火」が頻繁に発生していました。1859(安政6)年の開港によって都市化が進んだ横浜もたびたび大火に襲われます。そうした状況を克服するため、人びとは試行錯誤を重ねながら防火体制を整えました。そして災害とむきあう「消防」は都市に不可欠な存在となっていきます。

1919(大正8)年9月、常設の消防機関として、戸部の第一消防署(現・西消防署)とともに、現在の中消防署につながる第二消防署が薩摩町に誕生します。今回はその100周年を記念し、開港直後の町火消から戦後の自治体消防にいたる横浜消防のあゆみをたどっていきます。

1858年7月29日(安政5年6月19日)締結の日米修好通商条約に基づき、横浜の開港が決定すると、市街地の工事のため、土木請負人を中心に、多くの労働者が久良岐郡横浜村に入ってきます。そのなかから町火消を担う者が現れました。例えば、港湾の荷役や土木作業を請け負った鈴村要蔵は、駒形町を拠点とする「ヨ組」の頭取として消火活動にあたりました。

開港から3年後の1862(文久2)年段階で7組だった横浜の火消組は、市街地の整備とともに拡大、江戸幕府が崩壊した1868(明治元)年段階で10組になりました。火消たちは纏や梯子、鳶口などを装備、破壊消防を展開します。

他方、火災から自らを守るため、居留外国人たちも消防隊を組織していきます。例えば、オランダ商人のヘフトは独自に腕用ポンプを運用していました。また、外国人は石橋六之助や増田万吉などの日本人を雇い、居留地の消防を任せます。石橋や増田はこの仕事を通じて、外国人から最新の消火技術を学びました。

その後、1863年12月に発生したクニフラー商会の火災を契機に、後の居留地消防隊につながるボランティア・ファイアー・ブリゲードが組織されます。さらに1871(明治4)年以降は蒸気ポンプを導入するなど、居留地の消防は常に国内最先端の装備を有していました。

このように横浜では、日本人と外国人の消防組織が併存し、相互に影響を与えていました。そうした状況は第二消防署の誕生まで続いていくことになります。

増田万吉が指揮した居留地消防組 ベアト撮影 当館蔵
増田万吉が指揮した居留地消防組 ベアト撮影 当館蔵

(吉田律人)

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