横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第146号
2019(令和元)年11月2日発行

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展示余話
日米修好通商条約はどこで結ばれたのか?

小柴と神奈川

安政5年6月19日(1858年7月29日)に締結された日米修好通商条約は、日本が外国と自由貿易を開始し、国際社会に本格的に参入することを定めた最初の条約として、きわめて重要な意義をもつ。

安政4年12月以来、アメリカの駐日総領事タウンゼンド・ハリスと、下田奉行井上清直、目付岩瀬忠震のあいだで進められていた条約交渉は、朝廷の強い反対でその調印が延期になっていた。しかし、アロー戦争の終結により英仏の艦隊が中国から日本に来航するという情報が下田のハリスの元に入った。ハリスはアメリカ艦ポーハタン号で江戸湾(東京湾)に急行、幕府に情勢の切迫とアメリカとの条約調印を迫る。幕府は朝廷の許可を得る暇もなく、同艦上で日米修好通商条約に調印したのである。

条約が結ばれた碇泊地については、近年の概説書や通史、あるいは年表などで「小柴沖」と記すものが少なくない。小柴とは、現在の横浜市金沢区柴町あたりを指す。横浜・八景島シーパラダイスがあるのが柴町の沖で、金沢区のHPによればこの付近が条約の締結地だという。専門の研究者、そして地元でも、条約は小柴沖で結ばれたという見解が主流のようである。

ところが古い史書、たとえば『維新史』第2巻(1939年)や『横浜市史』第2巻(1959年)を見ると、ポーハタン号は6月17日に「小柴沖に来泊」し、19日に「神奈川(港・沖)」の同艦上で条約が結ばれたと記している。小柴と神奈川は直線距離でも約15キロ離れている。東京―横浜駅間が直線で27キロほどであることを考えると、けっして無視してよい懸隔ではない。江戸からどの程度離れた場所で条約が結ばれたのか、ということは、横浜の地域史のみならず、近代政治外交史を考える上でも小さくない意味をもつ。はたして、条約はどこで結ばれたのか。

この7月から当館で開催した「開港前後の横浜」展の準備のなかで、ポーハタン号の碇泊位置に触れたいくつかの史料を見出した。ここでは条約締結直前の同艦の動きを史料からたどり、この問題を考えるひとつの糸口にしたい。

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