横浜開港資料館

HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 展示余話  日米修好通商条約はどこで結ばれたのか?〈2〉

館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第146号
2019(令和元)年11月2日発行

表紙画像

展示余話
日米修好通商条約はどこで結ばれたのか?

本牧の名主の手紙

一つ目の史料は、安政5年6月28日付けで、本牧本郷村(現中区)の名主・次郎左衛門が江戸の領主(旗本)の用人と思われる人物(光藤幸左衛門)に宛てた次の手紙である。

(前略)然者当(月)十七日四ツ時頃異国船渡(来)、早速御註進可申上之(処)取込居候ニ付、延日ニ相成(候段)真平御用捨可被下候、右(者カ)四ツ時頃亜墨利迦蒸(気)船壱艘本牧沖江参(り)碇泊いたし候処、明十八日七ツ(時)頃御当地ゟ観光丸御船(ニ)而被遊御越候(後略)
(当館寄託佐藤安弘家文書。手紙は下部が破損しており、筆者が文意から補った部分は( )で示した)

図1 本牧の名主の手紙
「書簡(異国船本牧沖に来り候時掛合候役人名及様子)」
安政5年(1858)6月28日 当館寄託(佐藤安弘家文書)
図1 本牧の名主の手紙 「書簡(異国船本牧沖に来り候時掛合候役人名及様子)」 安政5年(1858)6月28日 当館寄託(佐藤安弘家文書)

手紙によると、6月17日の四ツ時(午前もしくは午後10時)ころ、アメリカの蒸気船1艘が「本牧沖」に渡来して碇泊し、翌18日の七ツ時(午前もしくは午後4時)ころ、江戸から幕府の蒸気船観光丸が来航したという。本牧本郷村は海に面しており、次郎左衛門は実際に本牧沖のアメリカ船を見た可能性が高い。つまり、現場近くで作成された信頼性の高い一次史料と言える。

次郎左衛門は、来航した幕府の役人として、下田奉行井上信濃守(清直)、目付岩瀬肥後守(忠震)、御勘定成瀬善四郎(正典)らの名前を挙げ、「右之御役人方亜め(り脱)か御掛合ニ相成候、右船ハ廿(日)五ツ時頃帰帆いたし、右御役人衆中様方茂同四ツ時頃御出立ニ者相成候」とその後の動静を記している。

この手紙からは、ポーハタンと思しきアメリカ艦が17日にすでに本牧沖に来航していることがわかる。条約が結ばれた19日の情報こそないが、アメリカ艦は17日以降も本牧沖にとどまり、条約締結後の20日の五ツ(午前もしくは午後8時)に本牧沖を去った、と解することができるだろう。

≪ 前を読む      続きを読む ≫

このページのトップへ戻る▲