横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第146号
2019(令和元)年11月2日発行

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展示余話
日米修好通商条約はどこで結ばれたのか?

アメリカ側の史料

アメリカ側の史料でもポーハタンの動きを追ってみよう。ハリスは条約を結んだ2日後の6月21日(新暦7月31日)、下田で本国の国務長官にあてて手紙を書いた。むろん、日米修好通商条約の締結を報じたものだが、その前後の自身の行動についてもくわしく記している。

6月15日(7月25日)、下田にポーハタン号とともにタトナール提督が到着した。ハリスが交渉の情況を伝えると、提督は条約を英仏の到着以前に結ぶべきだと発言した。アメリカ側はやはり急いでいたのである。そしてハリスは、「27日(旧暦6月17日)にフリゲート艦ポーハタンで江戸湾に向かい、その日の午後1時に神奈川に到着した」と記している。ハリスは6月17日、たしかに「神奈川」に到達していたのである(アメリカ国立公文書館蔵 Diplomatic Despatches: Japan(N.A.M.133)Vol.2-1, No.20)。

この日のポーハタンの動きは、同艦に乗り組んだ士官ジェームス・ジョンストン(James D. Johnston)の記録、China and Japan: Being a Narrative of the Cruise of the U. S. Steam-Frigate Powhatan(1860年、当館蔵)からよりくわしく判明する。6月17日(新暦7月27日)の朝、ポーハタンは下田港を出発。江戸湾に入り、浦賀の町を見ながら北上する。「“Treaty Point” をかわしたあと、すぐに神奈川の町が私たちの視界に開けた。(中略)午後2時、私たちはその岸から約3マイル(約4.8キロ)のところに錨をおろした」。17日にたどった航路や景観を詳細に記す同書だが、途中に小柴に碇泊したことは記されない。

図2 China and Japan: Being a Narrative of the Cruise of the U. S. Steam-Frigate Powhatan
1860年 当館蔵(ブルームコレクション)
図2 China and Japan: Being a Narrative of the Cruise of the U. S. Steam-Frigate Powhatan 1860年 当館蔵(ブルームコレクション)

“Treaty Point”(条約岬)とは、本牧の東南の岬、現在の三渓園あたりを指す。そして神奈川から3マイルというと、おおよそ現在の横浜ベイブリッジから大黒町あたりだろうか。この位置ならば、神奈川沖としても本牧沖としても間違いではない。

時刻は史料により相違があるが、6月17日、ポーハタンが小柴ではなく、神奈川(本牧)沖まで到達していたことは、まず確かだと考えられる。そして史料には、条約締結の19日午後3時(ハリス書簡)まで、船が神奈川沖から小柴に移動したとする記述も見られない。また、当時の情況から考えると、あえて江戸から遠ざかる必然性は低い。

図3 江戸湾(東京湾)の海図 “Yedo, Bay and Harbour” 1859年 当館蔵
図3 江戸湾(東京湾)の海図 “Yedo, Bay and Harbour” 1859年 当館蔵

なぜ小柴か

それでは、なぜ小柴説が生まれたのか。そのおおもとのひとつに考えられるのは、幕末維新史研究の基本文献である『維新史料綱要』の記述である。同書は6月17日項にハリスが「小柴沖ニ来泊」し、19日項に「小柴沖碇泊ノ米艦」で条約が結ばれた、と綱文に掲げる。ところが、その典拠となっている史料を「大日本維新史料稿本」(東京大学史料編纂所蔵)で確認してみると、17日の来航地点を神奈川(本牧)とするもの、小柴とするものが入り混じっている。当時情報が錯綜していたようではあるが、小柴と断定できる史料も見当たらない。

6月18日、老中は大目付に、官吏(ハリス)を乗せたアメリカ蒸気船が「昨十七日小柴沖へ入津」したと通達、このことを関係者にも連絡するよう命じた(「稿本」)。「小柴入津(来航)」は幕府の「公式見解」となったのである。ここからは史料をもとにした筆者の推測になるが、幕府上層部は実際にはポーハタンが神奈川沖まで進出していたことを知っていた可能性が高い。しかし、江戸の士民の混乱をおそれ、神奈川からさらに離れた小柴に米艦が来航したと通達を出したのではないか。そして通達がより公式なものゆえに、『維新史料綱要』も「小柴」を綱文に採用し、それが現在にいたるまでの小柴説のルーツになったのではないかと考えている。

(𠮷﨑雅規)

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