横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第146号
2019(令和元)年11月2日発行

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資料よもやま話
横須賀製鉄所の新政府への移管とフランス海軍

軍艦キャン=シャンを横須賀湾へ派遣

ゴエランの前に軍艦キャン=シャン(Kien-chan)が派遣されたことは、よく知られている。1868年3月28日(慶応4年3月5日)、旧幕府は、東征軍が横須賀に近づいて来たため、ヴェルニーに横須賀製鉄所で働くフランス人らを横浜へ退去させるよう通知してきた。フランス公使ロッシュ(L. Roches)(図3)は、製鉄所建設はフランス政府の支援する工事であり、またフランスだけでなく外国艦船の修理に必要な施設でもあるとして、工事の続行を主張し、キャン=シャンを横須賀湾に派遣した(前掲『横須賀海軍船廠史 第1巻』)。

図3 ロッシュ L. Roches, Trente-deux ans à travers l’Islam (1832-1864), t.1, 1884より 当館蔵
図3 ロッシュ L. Roches, Trente-deux ans à travers l’Islam (1832-1864), t.1, 1884より 当館蔵

ロッシュの要請を受けて派遣を決定したのがロワであり、決定の理由を次のように本省に報告している。

我が海軍技師、ヴェルニーが海軍工廠建設を任されている横須賀においても、横浜同様、安全が脅かされているとつよく感じられた。工廠は旧幕府に見捨てられ、フランス公使は、フランスにとって極めて重要な意味をもつ施設であるため、最後の最後までこの施設を守らなければならない、また工廠で雇われているフランス人らが工廠を離れることになった場合、かれらを船で救出しなければならないとして、船を一隻派遣するよう要請してきた。そこで私はこの任務をキャン=シャンに与えた。オイエ提督(G. Ohier)[在サイゴン(現在のヴェトナム、ホーチミン)の同艦隊司令長官]の新たな意向と勧告に従って、私はキャン=シャンを中国の揚子江への派遣をつよく願っていたのだが。しかし少しの間だけ、中国でも起きたような重大な事態に直面しているこの横須賀湾に船を一隻、派遣する必要に対応できる態勢に我々があることを願う。(1868年4月8日付、横浜港からの報告)

ロワは製鉄所建設に協力している海軍であるから当然ではあるが、横須賀製鉄所の重要性についてロッシュと同じ認識であったこと、そして横須賀湾に派遣されたキャン=シャンは、中国海艦隊全体の作戦では、揚子江に派遣されるはずであったこと、また横須賀への派遣は、短期の予定でもあったことが判る。具体的には、新政府の外交担当官との交渉のため、イギリス公使館書記官ミットフォード(A.B.F.-Mitford)とともに英艦ラトラー(Rattler)で大坂に派遣されていたフランス公使館書記官ブラン(L. Brin)が戻るまでであったようだ。ブランは新政府に、横浜および横須賀に住む外国人の安全の保証を求める各国代表の書簡を届けるため大坂に赴いたもので、その成功の報告が待たれていた。

4月17日、ブランがラトラーに搭乗して横浜に戻り、間もなく、新政府の外交担当者が横浜に到着し、旧幕府から横浜と横須賀の移管を受けることが知らされた。そこでロワは、キャン=シャンを当初の予定どおり、5月1日に揚子江に派遣することにした(4月17日付、横浜港からの報告)。ただし、実際に出航したのは翌2日だった(5月12日付、横浜からの報告)。

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