横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第146号
2019(令和元)年11月2日発行

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企画展
特設消防署の誕生
―横浜市中消防署の源流―

消防力の強化をめぐって

社論「市の消防設備」以降も『横浜貿易新報』は防火体制の改善を訴えたが、その兆しは見えなかった。例えば、1913(大正2)年2月、県知事の大島久満次は蒸気ポンプ5台やそれを運用する馬の新規導入を横浜市会に諮問、市会では消防自動車の導入も議論に上がったが、財政上の理由から見送られることになった。その一方で、薩摩町消防組は1914年3月開幕の東京大正博覧会に出陳されたイギリス・メリーウェザー社製のガソリンポンプ自動車を購入、「メリーウェザー号」と名付けて運用していった。当時、大阪市が蒸気ポンプ自動車を運用していたが、ガソリンポンプ自動車の導入は薩摩町消防組が最初であった。

大正期の薩摩町消防組の庁舎
1915(大正4)年 石橋サク子家資料 当館保管
大正期の薩摩町消防組の庁舎 1915(大正4)年 石橋サク子家資料 当館保管

横浜市の財政問題が大きな壁となるなか、1918年11月15日、神奈川県会において消防署の新設が議題となった。消防署未設置の京都市、横浜市、神戸市、名古屋市にそれを新設しようとする内務省の動きもあり、神奈川県警察部は消防署開設の予算を計上した。これは横浜市の消防行政をすべて神奈川県に移管することを意味した。しかし、市部参事会は消防署の必要性を認めつつも、①横浜市との交渉不足や、②予算不足を理由に消防署関係の予算を削除した。それに対し、警察部長の大塚惟精は再考を促したが、決定が翻ることはなかった。

だが、翌1919年4月28日に発生した埋地大火(焼失戸数約3100戸)を契機に流れは変わる。大塚は「今回の大火に際して最も好き教訓を得たるは消火器具の完備並に消防夫の訓練を充実し、更に破壊道具の備へ付なり。現在の消防機関が必ずしも満足し能はざりしは最も遺憾とする所なり、此処に於て近く設置すべき官設消防署の必要は最適切事なる事を深く感じたり」と述べ、消防署の新設を進めていった(『時事新報』1919年4月30日)。この動きに県会も賛同、横浜市に消防署が置かれることになった。

既述の通り、9月1日に2つの消防署が誕生する。このうち第二消防署は薩摩町消防組の施設と装備を引き継いで活動することになった。これによって日本人と外国人の消防組織が併存する体制は解消される。一方、各消防組の人員や装備は縮小された。消火活動の主力であった消防組は、消防署を支援する組織へと変化していったのである。

(吉田律人)

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