横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第146号
2019(令和元)年11月2日発行

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企画展
特設消防署の誕生
―横浜市中消防署の源流―

明治後期の消防改革

伊勢佐木町などを焼き払った1899(明治32)年8月12日の雲井町大火(焼失戸数約3200戸、死者11人)の後、行政によって消防体制の強化が図られていく。同年12月、県知事の浅田徳則は横浜市会に消防力強化の可否を諮問、その同意を得て、翌年3月に横浜水上警察署の小型汽船「萩号」への蒸気ポンプ配備と、腕用ポンプ3台の導入が決定する。従来、横浜市では、1887年10月の近代水道導入以降、水道消火栓を中心とする防火体制を構築、蒸気ポンプや腕用ポンプを廃止してきたが、断水や水圧不足などの問題もたびたび生じていた。雲井町大火の背景にも水道消火栓の機能不全があり、それを補うため、腕用ポンプを導入したのである。

明治初期に導入された蒸気ポンプ 石橋サク子家資料 当館保管
明治初期に導入された蒸気ポンプ 石橋サク子家資料 当館保管

その後、横浜市は腕用ポンプを増やすとともに、1909年に2台の蒸気ポンプを導入、また、同年11月1日の県令第79号で伊勢佐木消防組常設隊、翌年1月7日の県令第1号で戸部消防組常設隊がそれぞれ組織された。常備消防手は前者が10人、後者が6人で、各警察署に待機して蒸気ポンプを運用した。

このように横浜市は消防力の強化を図ったものの、1910年3月19日に野毛町大火(焼失戸数約500戸)が発生、『横浜貿易新報』は3月21日に社論「市の消防設備」を掲載し、防火体制の改革を唱える。同論は「消防力の頼むべき蒸気喞筒としては、薩摩町消防組の二台、水上消防組の喞筒船一台、伊勢佐木及び戸部消防両組の新喞筒各一台と郭内据付の私設蒸気喞筒一台あるのみにして、私設の分を合して六台を数ふるに過ぎず」とし、「市が水道の消防力のみに依頼し、他に有効なる消防設備を加ふるに頗る冷淡なりしを嘲笑せざるべからず」と批判している。その上で、消防自動車の導入や馬を用いた蒸気ポンプの運用などを訴えている。横浜市の防火体制は、予算不足のため、水道消火栓や優秀な装備を有する薩摩町消防組に依存する傾向にあり、『横浜貿易新報』はその改善を求めたのである。

一方、頼みの薩摩町消防組に関しては、1908年9月に廃止問題が浮上していた。その背景について9月4日付の『横浜貿易新報』は、「薩摩町の消防設備は市の模範とも云ふべきほど完美して居るが、併し其経費は山下町を中心とする外国商館の寄付金で成立して居るので近頃は経費も増加し、寄付金のみで持切れない所から市より補助して貰ひたいと申込んだけれど、市は予算がないからとて断わったさうだ」と報じている。その後、一度、1909年4月3日に廃止することが決まったが、外国人の間で調整の上、撤回されることになった。この件からも横浜の防火体制が不安定だったことがわかる。

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