横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第139号
2018(平成30)年1月31日発行

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展示余話
横浜開港後における
尾張屋新田・平沼新田について

本史料は、慶応3年(1867)4月10日付で、武蔵国久良岐郡の尾張屋新田・平沼新田の地主・名主である(平沼)九兵衛が、親類の同国橘樹郡保土ヶ谷宿の孫四郎・勘四郎と同宿名主苅部清兵衛と連名で「御奉行所」宛に二千両の拝借を願い出たものである。連名している人物の内、勘四郎は藤江新田・岡野新田の地主である(岡野)勘四郎、名主の苅部清兵衛は保土ヶ谷宿本陣の苅部家(軽部家)の当主である。ただし、文言の修正・加筆がみられ、末尾の連名部分の内、勘四郎の捺印が切り落とされているので、草稿あるいは下書ということになる。

さて、本史料によれば、帷子川の右岸に存在する尾張屋新田と平沼新田は、築造した時期から年数が経ち、新田を囲む堤防が各所で「崩損」じており、堤防の土手幅が薄くなっているという。九兵衛としては、補修を加えたいと思ってはいるものの、近来の諸物価高騰の折柄、そのための資金調達の目途がつかず、やむを得ず修理を延期している状況であった。

ところが、「去寅年」=慶応2年(1866)7月1日に生じた「大風雨」により新田内に「出水」が生じた。特に満潮の際に「戸部下通囲堤壱ヶ所」と「中堤壱ヶ所」の合計2か所が「押切」れたという。「押切」とは堤防の全面崩壊ではないものの、部分的に決壊が生じた事柄であろう。そのため、崩壊した「切所」の部分については修復を行っている。被害状況としては「少々宛」の破損ではあるが、このままで放置しておくと、「大出水」の場合には、大きな被害を蒙ることが想定される状態である。そこで、「堤上置」「腹付土」「悪水堀不残浚方」「地窪之折々水冠候場所者他所より土持運上置」等といった諸工事を至急に実施する必要があるとしている。具体的な工事内容としては、「堤上置」は堤防を嵩上げして高くすること。「腹付土」は堤防の「腹」=横の土を増やして堤防の幅を広げることであり、共に堤防自体の強化ということになる。また、「悪水堀不残浚方」は、水田から排出する悪水の流路である「悪水堀」を浚渫することで、新田内における水の排出を促進する効果を狙ったもの。「地窪之折々水冠候場所者他所より土持運上置」は、新田内部に存在する「地窪」(周辺より低い)場所は水が溜まりやすいので、新田外部の土を運んで埋めて高くする行為である。

さらに尾張屋新田・平沼新田から新田外部の海へ悪水を排出する「悪水吐」については、これまで「平沼新田往還通堤」に伏せていたが、馬車の通行等により、掛け渡しの石樋がたびたび破損しているので、今後は「戸部下舩入堀通堤」へ「埋替」えるとしている。「平沼新田往還通堤」とは、平沼新田を取り囲む堤防の内、海側に面した箇所であろう。この場所は「往還通堤」とあるように東海道から開港場へといたる横浜道のルートにあたる。そのため度重なる「馬車」(馬が牽く荷車)の通行の加重により、埋め込まれている石樋が破損したのであろう。新たな樋口の場所である「戸部下舩入堀通堤」とは、平沼新田の内、戸部村との境にあたる「戸部下船入堀」(石崎川と思われる)に面した堤防であり、人馬の往来があまり頻繁ではない場所になる。

以上のような内容の普請工事を現在実施しているが、あわせて「私抱百姓」=尾張屋新田・平沼新田に居住している百姓が「拾三人」=13軒存在するが、彼らの家屋はいずれも「海面吹晒場」であり、「大風」の際には破損するケースも多いと記されている。「海面吹晒場」とは、東京湾方面から吹く風をまともに受ける場所の意味であろう。もともと海面を干拓して成立した新田地であるので、やむを得ない環境ではある。この点についても補修を加えたいと考えているが、何分にも現在の物価高騰の折柄では、そのための資金が準備できず、困惑している。

こうした中、神奈川奉行所で運用している資金の内、二千両を借用したいというのが本史料の内容である。なお、「引当」=担保については、尾張屋新田と平沼新田の耕地とし、五年間で元金二千両と利息を含めて返済することとしている。

冒頭に述べたように本史料には、文言の修正・加筆があり、実際に二千両借用の願書が提出されたのかは判然としないが、開港以後における平沼新田等の状況をうかがうことができる。

(斉藤 司)

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