横浜開港資料館

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「開港のひろば」第132号
2016(平成28)年4月15日発行

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資料よもやま話
明治初年における武州金沢藩の動向
―領内村々における「会議方」の設置について―

先述の「御領主様御達書」の本文によれば、同年3月17日付で「右御用之儀有之間、明十八日四時御屋敷江可被罷出候」という森沖右衛門宛の指示が出されている。

こうして3月18日に「会議方」に任命された森沖右衛門ではあるが、それからわずか2か月後の5月20日には「老年其上足疾等有之候」として「会議方被下御免」として退役している。「会議方」以外にも「池川浚御用」を辞職したり、「御扶持」を返上しているので(森家文書「森家関係」二五〜二七号文書」)、「老年」「足疾」以外にも要因があったのかもしれない。

先述した諸職を辞める森沖右衛門とその子である森兵四郎の両名に対して、藩側は「其方共儀 御一新之御趣意御奉載御改政之処、御公務御多端、学校御取立、人材御撰挙、御武備御充実之御主法被為在度候ニ付、御勝手向御変革諸費御省略富国強兵之御趣意より御経済尽力可仕旨 御直ニ被 命候処、感戴いたし候」と述べ、退任後においても「御勝手向御変革」「諸費御省略」「富国強兵」といった経済面における尽力を藩主自らの意志として伝達している(図版3)。その中で「御一新之御趣意」をふまえた「御改政」の内容を「学校御取立」「人材御撰挙」「御武備御充実」と記している。「学校御取立」は文武の内、文を担当する藩校「明允館」の設立、「人材御撰挙」は藩士・領民を含めた人材の登用、「御武備御充実」とは軍制改革であろう。ここには武州金沢藩が明治初年の段階で目指した政策の内容が明示されているように思われる。

図版3 明治2年5月20日「会議方御免被仰付」森家文書「森家関係」26号文書
図版3 明治2年5月20日「会議方御免被仰付」森家文書「森家関係」26号文書

(斉藤 司)

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