横浜開港資料館

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「開港のひろば」第132号
2016(平成28)年4月15日発行

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企画展
ハマの大地を創る
―吉田新田の開発―

「横浜」という地名は、現在の元町辺りから野毛の方へと横に伸びている砂浜に由来しています。この「横浜」の砂浜の西側には広大な入海が広がっていました。現在「関外」と呼ばれる中村川・大岡川・JR根岸線に囲まれた範囲と、「関内」の西側にあたる中華街や横浜スタジアムなどは、この入海の範囲に含まれます。この内、「関外」の部分がかつての吉田新田の範囲に該当します。新田の名称は開発者である江戸の材木・石材商であった吉田勘兵衛の名前に由来しています。ここでは吉田勘兵衛の子孫である吉田家に残された2枚の図面から、開発以前における入海の状況と、新田開発にあたり勘兵衛が考慮した点について紹介します。

吉田家に残された2枚の図面
―「開発前図」と「開発図」

吉田家には開発前の入海の状況と吉田新田の構造を示す2枚の絵図が残されています。この2枚の絵図は、昭和3(1928)年に「吉田新田開墾二百七十年記念」として刊行・配布され、それぞれ「吉田新田埋立以前横浜図」(図版1)と「吉田新田埋立開墾図」(図版2)と題されています。印刷された2枚の絵図は同じ大きさになっており、絵図の原図も同様に同じ大きさと思われているようですが、石野瑛『横浜旧吉田新田の研究』(1936年)によれば原図の大きさは、前者が「横四尺八寸五分、縦五尺七寸」(横145.5センチ×縦171センチ)、後者が「縦四尺五寸、横三尺」(縦135センチ×横90センチ)となっています。おそらく、この2枚の図は幕府への開発申請や開発参加者(資金提供者)への説明のために、セットで作成されたものであり、本来の利用方法は、前者の入海部分の上に後者を乗せることにより、新田開発の計画を説明したものと思われます。つまり後者の図面は新田開発終了後に作成された図面ではなく、吉田新田の完成予想図あるいは設計図面ということになります。以下、こうした理解にもとづいて、前者の図面を「開発前図」、後者を「開発図」とよぶことにします。

図版1 吉田新田埋立以前横浜図
昭和3(1928)年 当館所蔵
図版1 吉田新田埋立以前横浜図 昭和3(1928)年 当館所蔵
図版2 吉田新田埋立開墾図
昭和3(1928)年 当館所蔵
図版2 吉田新田埋立開墾図 昭和3(1928)年 当館所蔵

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