横浜開港資料館

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「開港のひろば」第132号
2016(平成28)年4月15日発行

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企画展
ハマの大地を創る
―吉田新田から近代都市へ―

新鐫横浜全図 明治3(1870)年 当館蔵
新鐫横浜全図 明治3(1870)年 当館蔵

市役所や県庁が所在する横浜市の中心部は、今から350年ほど前まで、現在の元町あたりから北へと伸びる横浜村の砂州と、それによって東京湾と区分された入海であった。

横浜村の砂州は、現在の本町通りを中心軸に、東北の東京湾側は海岸通り、西南の入海側は弁天通りをおおむね海岸線とするもので、それより西側には現在の中村川・大岡川を海岸線とする広大な入海が広がっていた。

近代都市横浜の成立の起点となる、安政6(1859)年の横浜開港と開港場の建設は、この入海の陸地化が前提の一つであったと思われる。また、近代都市として横浜が発展していく過程においては、都市域が拡大していく平坦な土地が必要となる。結果的ではあるものの、陸地化されたかつての入海の範囲がその用地を提供している。このように入海の陸地化は、文字通り「ハマの大地」を創りあげたものであり、近代都市横浜の成立と発展において、きわめて重要な出来事なのである。

入海の陸地化は、具体的には新田の開発として進められた。17世紀半ばにおける吉田新田の開発を皮切りに、19世紀初頭の横浜新田(現在の中華街に相当する)、19世紀半ばの太田屋新田(横浜スタジアムや市役所を含む範囲)の順序で開発され、かつての入海は広大な水田へと変わっていった。ちなみに太田屋新田の開発は安政3(1856)年であり、横浜開港のわずか数年前にあたる。

なかでも江戸の材木・石材商である吉田勘兵衛によって行われ、寛文7(1667)年に完成された吉田新田の開発は、金沢区の泥亀新田とともに、市域海岸部の新田開発としては最も早い時期のものである。また、開発の範囲は桜木町駅〜関内駅〜石川町駅という現在のJR根岸線までを対象としたもので、入海全体の約8割を陸地化するという大規模なものであった。それに続く横浜新田や太田屋新田の開発も、こうした吉田新田の開発が前提となっているといってよいだろう。

本企画展では、かつて入海であった横浜の都心部が新田開発によって陸地化し、さらに横浜開港を起点に近代都市へと変貌していく約200年間の過程を、吉田新田の開発を中心に紹介する。

(斉藤 司)

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