横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第132号
2016(平成28)年4月15日発行

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展示余話
あるドイツ人が残した写真帳から

国立歴史民俗博物館と長崎歴史文化博物館、鳴門市ドイツ館との巡回展として開催した企画展「日独修好150年の歴史 幕末・明治のプロイセンと日本・横浜」では、通商条約締結に関わる資料やシーボルト家に伝わる資料など、ドイツから借用した初公開資料を中心に、プロイセン(ドイツ)と日本との交流史の原点となる資料を展示した。

合わせて当館独自の取り組みとして、通商条約締結後に横浜で始まった日独の交流の様子を物語る資料を「ドイツ系商社の活躍」・「ドイツ人社会点描」と題したコーナー等で紹介した。

横浜のドイツ人の人口は、明治期を通じて常に、欧米外国人の中ではイギリス・アメリカに次いで多かった。アーレンス商会、イリス商会、シモン・エヴァース商会、カール・ローデ商会といったドイツ系商会が活躍し、ドイツから機械や軍事品、化学製品等を日本へ輸入したことがわかっている。

しかし、横浜のドイツ人社会がどのような活動をしていたのか、という点については、独自の親睦交流団体であるクルプ・ゲルマニア(ドイツ人クラブ)とドイツ学園の設立・運営が知られているくらいである。

ここでは展示資料の中から、ドイツ人の横浜での暮らしぶりを垣間見ることができる当館所蔵写真資料を紹介したい。

「フリッツ・ザンドステーデ写真帳」(1906〜09年)

昨年、古書店から購入した資料である。アルバムの持ち主であったフリッツ・ザンドステーデ(Fritz Sandstede)は、ドイツ北西部のオルデンブルク(Oldenburg)出身で、1906年に来日し、ジャパン・ブルワリー(現在のキリン株式会社)の副醸造技師となった。醸造所は、輸入した大麦やホップ等の原材料を使ったドイツ人醸造技師による本格的なドイツ風ビールを製造することを売りにしていた。醸造所は市内中区北方にあった。現在の市立北方小学校やキリン園公園があるあたりである。

ザンドステーデは約3年間の日本滞在後、1909年頃に日本を離れ、南米チリの醸造所へ移った。

写真帳に収められていた写真は百枚近くあり、多くは横浜時代のものである。また地元の写真館が撮影したもの十数枚を除いて、その多くはザンドステーデ自身が撮影したものとみられ、全部ではないがメモ書きも付いている。

横浜での自身の暮らしぶりや横浜の風景、開港50年祭時(1909年)の町の賑わい、1909年3月に体験した大地震の被害、ドイツ人仲間との小旅行などが記録されている。その中から7枚を選んで次に紹介しよう。

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