横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第132号
2016(平成28)年4月15日発行

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企画展
ハマの大地を創る
―吉田新田の開発―

「開発前図」を読む

「開発前図」の方位は、上部が西、下部が東になります。画面の中央には「入海」という文字が記されています。この「入海」の下から横浜村の砂州にいたる入海の下部には十数艘の船が描かれています。これに対して、「入海」の文字から大岡川の河口(現在のお三の宮日枝神社の所在地)へといたる上部の海には船は一艘もみることができません。これは、入海の上半分が、船の航行が困難であるほどの浅瀬であったことを意味していると考えられます。おそらく干潮時には海底が露出していたことでしょう。この海が浅いことは新田開発の適地という条件になります。一方、入海の下部は一定度の深さであるということになります。つまり入海の海底は浅い上部=西側から深い下部=東側というように傾斜していることが確認でき、新田開発をする範囲のまわりに堤防を築き、その内部の海を干上がらせれば、西→東へと傾斜している海底が露出することになります。

開発の方法―「埋立」と「干拓」

さて、吉田新田の開発は一般には「埋立」といわれていますが、厳密にいえばこれは誤りになります。海岸部における新田開発の場合、最も考慮しなければならない事柄は、水田稲作に不可欠な淡水(これを「用水」といいます)の確保とその供給、さらには水田から排出され不用となった水(これを「悪水」といいます)を海へと流す構造を作ることです。

吉田新田の場合、「用水」の取水は「開発図」によれば新田の頂点(現在のお三の宮日枝神社の所在地付近)において、取水口=堰を設けて大岡川の淡水を取水しています。その後、現在の大通り公園の位置に存在していた「中川」を用水の基幹線として下部の東側へと流し左右の水田へ用水を供給する構造になっています。また、水田で不要となった「悪水」は下部の沼地でいったん滞留させ、海の干満に合せて二か所ある水門から海へと排出していたと考えられます。「悪水」を溜めるという沼地の役割を考えれば、この場所は一定の深さである必要があります。

こうした海岸部における新田開発のありかたをふまえ、吉田新田の開発は「干拓」という方法で行われました。干拓は新田の開発地を堤防で囲み、その中の海を干上がらせるという工事内容になります。農地として必要な一定度の養分を供給するため、ある程度の山土を投下するとは思われますが、原則として完成した水田は、堤防外側の水面よりも低くなっています。これに対して、もとの水面よりも高く造成する「埋立」は、住宅地や工場などにする場合には適合的な方法ですが、水田稲作を主体とする海岸部の新田の場合、「埋立」では低い場所で取得した淡水をそれより高い場所へと流すことになり、用水の確保・供給が困難になってしまいます。

吉田勘兵衛

吉田勘兵衛は、慶長16(1611)年に摂津国能勢郡(大阪府能勢町)に生まれ、寛永11(1634)年に江戸へ出て、本材木町(東京都中央区)に住み材木・石材商を営みました。当時、江戸の町は都市域の拡大の時期にあたり、各所で大きな土木工事が実施されており、商才に富んだ勘兵衛は成功をおさめ、その利益を吉田新田の開発へ投資したことになります。ちなみに材木と石材は当時における土木工事の材料であり、それを商売の対象としていた吉田勘兵衛は、当然関連する知識・経験を保持していたと考えられます。また、材木・石材の運搬は海路を利用していますので、東京湾を始めとする各地の湊の有力者との間でネットワークを存在していたと思われます。当時、東京湾西岸の有力な湊であった神奈川湊の近隣に位置するこの入海については、事前に水深や干満などの調査をした上での計画の立案・実施であったものと想定されます。当然、その間には野毛村をはじめとする入海周辺の村々の有力者との間で事前の説明や調整が行われていたことでしょう。

(斉藤 司)

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