横浜開港資料館

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「開港のひろば」第132号
2016(平成28)年4月15日発行

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資料よもやま話
明治初年における武州金沢藩の動向
―領内村々における「会議方」の設置について―

また、「万事私を省き村役人を補助いたし、村方為筋ニ相成候儀相考、農間に会議日相立、村役人一同打寄」とあるように、「会議方」は従来の村役人と別個に任命され、個別の村落の維持管理を主要な職務とする村役人とは異なり、広い視野に立った認識と議論が期待されている。「地方役并執政職」の「地方役」は藩の農政・民政担当役人、「執政職」は従来の家老に相当する「大参事」等の藩首脳部のことであり、「直ニ」とあるように、「会議方」の意見をできる限り藩政へ反映させることが想定されている。

史料1によって任命された「会議方」は、宿村の森沖右衛門・藤左衛門・作能右衛門、赤井村の清七・古久右衛門・勝五郎、寺前村の喜三郎・嘉七・虎蔵・甚右衛門の3か村の10名である。この3か村は、史料1に関する森沖右衛門への呼出状である「御領主様御達書」の包紙(図版2)に「北三ケ村会議方」とあり、「北三ケ村」と呼ばれていた村々である。武州金沢藩の領地の内、陣屋所在地である金沢(六浦)の地に付属した武蔵国久良岐郡に属する6か村の内、北部の3か村ということになろう。おそらく残りの六浦平分・六浦寺分・六浦社家分の3か村については別途任命されたものと考えられる。ただし、陣屋元というべき久良岐郡六か村以外にも「会議方」が設定されたかは今後の課題である。

図版2 森家文書「森家関係」24号文書
図版2 森家文書「森家関係」24号文書

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