横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第131号
2016(平成28)年2月3日発行

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展示余話
三分小学校における音楽教育の展開
―「六浦荘(むつうらのしょう)村立三分(さんぶん)小学校沿革誌」にみる―

その後の音楽教育

正規の科目となった「唱歌」の授業は、六浦不二の死後も継続され、明治33年3月11日に当時の「皇太子殿下」が金沢の伊藤博文の別荘へ来訪した際には職員生徒一同で「奉送迎」を行い「唱歌君が代」を合唱している。

明治35年1月7日には校舎の増築工事が完成し、その「開校式」が挙行された。その次第には「五、生徒君が代ヲ合唱ス」「九、生徒開校式の歌ヲ合唱ス」とある。ちなみに当日の配置図(図2)に「風琴」という記載が確認できる。「風琴」の伴奏に合わせて生徒一同で合唱したのであろう。

図2 「六浦荘村立三分小学校沿革誌」
−明治35年1月7日「開校式」における配置図

図2 「六浦荘村立三分小学校沿革誌」−明治35年1月7日「開校式」における配置図

明治39年3月28日には「本県師範科卒業」の宮川一正が訓導として三分小へ着任している。5月11日には「風琴ヲ新調ス」とあり、宮川一正の赴任に合わせるように「風琴」が新調されている。この人物は2年後の41年4月15日に音楽学校師範科へ入学するため休職しており、本格的な音楽教育を志していたようなので、オルガンの新調はそれへの期待なのかもしれない。

しかし、明治41年10月27日には病気のため死去している。全校の児童が会葬したという。「沿革誌」には「同氏ハ在職中唱歌教授ニ最得意ナリキ、後四十二年四月十一日同氏記念トシテ遺族ヨリ風琴及椅子一具ヲ寄贈セラル」とあり、「唱歌教授」を「最得意」とした生前の様子と、遺族より愛用の「風琴及椅子一具」が寄贈された旨が記されている。

宮川一正の休職を補充するように、明治41年5月11日に原木種三が訓導として川崎小学校より転任してきた。同年10月21日に「教室進行ニ「ラッパ」ヲ吹楽ス、原木訓導、児童ノ希望者ニ練習セシメシ所ナリ」とあるように、音楽教育が同人の担当であった。

彼にとって最初の大きな式典は、同年9月5日の改築校舎落成に伴う「開校式」である。その際に児童が歌った「開校式ノ歌」の歌詞が「沿革誌」に記されている(図3)。

図3 「六浦荘村立三分小学校沿革誌」
−明治41年9月5日「開校式」において児童が合唱した「開校式ノ歌」の歌詞

図3 「六浦荘村立三分小学校沿革誌」−明治41年9月5日「開校式」において児童が合唱した「開校式ノ歌」の歌詞

この歌詞は、一番の冒頭の一節に「開校祝ひ(創立紀念)」とあるように、本来は「創立記念式ノ校歌」として「職員ノ合作」であった歌詞を、部分的に変更したものである。また、第3行の冒頭右肩に小さく「女」とあるのはこの一節は女性のみが歌う指示であろう。第4行の冒頭右肩の「男」という記載は、逆に男性のみが歌う指示と思われる。曲調は「小学唱歌集第三編忠臣の譜」を転用したものであった。

このように三分小学校における音楽教育は次第に、他の教科と同様な水準に到達していったのである。これ以降、音楽教育に限定された記述は特にみられない。

なお、「沿革誌」は当館において複製本を公開している。この公開と企画展における利用については、横浜市立六浦小学校校長の大谷珠美氏のご高配をえました。記して謝意を表します。

(斉藤 司)

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