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「開港のひろば」第130号
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資料よもやま話
武田久吉と日本山岳会の仲間たち
―「武田家旧蔵アーネスト・サトウ関係資料」他から
戦後の高頭仁兵衛書簡
小島が亡くなった翌49(昭和24)年2月、新潟県三島郡深才村(現長岡市)在住の高頭から書簡【図5】が届いた。自身の寿像建立の話を受けることにし、久吉にその銘文執筆を依頼するものだった。
昭和二十三年五月三十日の午前に越後支部長の藤島玄君と笠原藤七君とが御来訪になりまして老生の寿像云々の御咄しが有りました。…私の一生の光栄と存じまして有り難く御受けを致しまする。夫れから銘文は小島君に御願いを致し度く…建設場所は老生が始めて山岳に興味を得ました弥彦山上と御願いを申しました。
そして高頭は小島に執筆依頼のはがきを書いたが、小島が同年亡くなってしまった。
藤島君が…小島兄御逝きの上は銘文は武田先生に御願いを致そうと存じますが、如何と申されましたから、私は…武田さんから御執筆を願われますれば幸甚の至りで有りますると申しました。
高頭も前掲講演録に登場するが紙幅の関係で簡単な紹介にとどめる。高頭は新潟の豪農で、大著『日本山嶽志』(1906年刊)を編纂する過程で小島と知り合い、小島の紹介で山岳会の財政的支援者となり、山岳会第2代会長も務めた。現在、弥彦山上には格調高い久吉撰の銘文が、訪れる登山者に高頭の足跡とその人柄を伝えている。
久吉は1972(昭和47)年89歳で没し、7名の発起人全員が鬼籍に入った。
武田家(林静枝さん)からは現在でも関係資料のご寄贈がある。サトウや久吉に関わる新たな展示を企画したい。
(中武香奈美)
*図1は、当館所蔵「戸田家旧蔵バジル・ホール・チェンバレン及び戸田欣子関係資料」から
*図2〜5は、当館所蔵「武田家旧蔵アーネスト・サトウ関係資料」から
*図2〜5は、当館所蔵「武田家旧蔵アーネスト・サトウ関係資料」から