横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第130号
2015(平成27)年9月30日発行

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展示余話
人力車の盛衰

1904(明治37)年に『実業之横浜』として創刊した『大横浜』(実業之横浜社)は、1929年(昭和4)5月に創業25周年の特集を組んだ。そのなかに「萬年記者」が執筆した「馬車から自動車へ」という興味深い記事がある。これは25年間の横浜の交通史を回顧したもので、「本誌が創刊された年には市内にはまだ電車がない」と、大きく変わった市内交通について語っている。ここでいう「電車」とは、市民の足となる路面電車のことだろう。

同記事は、「二十五年前市民のかりた交通機関は人力車が唯一のものであった。当時周布知事、茂木保平、木村利右衛門、原富太郎諸氏の馬車は世人の珍としたもので建築師下田菊太郎の馬車が月岡町から老松町の坂を下ると世人は奇異の眼を見張った。最も居留外商中には馬車を駆るものも可なり多数であった」と、1904年頃の市内の様子を書き記している。ここから市民が人力車を使い、富裕層が馬車を使っていたことがわかる。また、馬車は主に外国人の生活空間で使用されていた。

そして、自動車の普及にともなう交通手段の変化にふれた上で、最後は「過去の二十五年間は自動車が馬車、人力車に代る時代であった。恐らく将来は飛行機、空中電車、地下鉄が自動車、路面電車に取って代るべき時代であらう」と、交通の未来を予見している。実際、空中電車(モノレール)や地下鉄、飛行機は重要な交通手段となっていく。

このように新しい交通手段が登場するたびに、古い交通手段は衰退し、人びとの生活スタイルも変わっていった。例えば、駕籠は人力車に替わり、人力車は自動車に替わった。また、馬車と人力車は競合関係にあり、時には乗客をめぐって衝突しあった。さらに鉄道や路面電車など、大規模な公共交通機関が登場すると、その整備について、古い交通手段は抵抗した。

先の企画展示「ハマを駆ける‐クルマが広げた人の交流‐〔明治・大正編〕」では、日本の開国以降、横浜の街で見られた駕籠、荷車、馬車、人力車、自転車、自動車の歴史をたどるとともに、乗り物同士のせめぎあいを紹介した。ここでは人力車営業の盛衰を中心に、明治・大正期の交通機関の変化を改めて追いかけてみたい。

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