横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第130号
2015(平成27)年9月30日発行

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展示余話
人力車の盛衰

人力車の普及

1870(明治3)年3月22日、人力車を考案した和泉要助、鈴木徳次郎、高山幸助の三人は、人力車の営業を東京府に申請し、東京府は2日後の24日に許可を与えた(『庚午 府治類纂』所収、東京都公文書館所蔵)。これが人力車の最初とされ、使い勝手の良い人力車は爆発的に増加していった。

図1 横浜市内の人力車と車夫 当館所蔵
軽装の車夫。車夫の服装も法令で定まっていた。
図1 横浜市内の人力車と車夫 当館所蔵 軽装の車夫。車夫の服装も法令で定まっていた。

横浜においても同年11月に人力車の営業が始まった。また、橘樹郡生麦村(現鶴見区)の関口家が残した「関口日記」にも、翌1871(明治4)年4月16日の記述に「先日中相頼置候人力車今朝久四郎持参いたし候」とあり、京浜間に人力車が拡がっていく様子がうかがえる。

人力車の増加は、それを生活の糧にする人びとの増加を意味した。当初、人力車営業を希望する者は、戸長等の印鑑を得た上で、県に届けなければならなかった。後にこのシステムは、関連法規が整備されていく過程で警察の仕事になっていく。しかし、無許可で営業する者や、規則に違反する者など、トラブルは絶えなかった。これに対して神奈川県は、規則を改正して取り締まりを強化するとともに、所管の警察や営業者組合を通じて統制を図っていった。

1892(明治25)年7月4日には、神奈川県における人力車営業の基本法令となる人力車営業取締規則が制定され、営業申請の方法や車夫の資格、賃銭などを定めた。だが、規則は必ずしも守られていなかった。例えば、1900(明治33)年2月4日の『横浜貿易新聞』は、「当市の三大弊風」として、「横浜停車場付近の車夫が他地方の客を乗せて格外の賃銭を強請し特に婦人と見れば異人屋敷案内を名として海岸通りより山下町を一周し二円以上を要求して得たりと為すの外、乗客にして田舎出の男なれバ悪風言ふ可からざる旅館に連れ行きて幾分の周旋料を貪り」と、人力車営業の問題点を挙げている。

これらの行為は人力車営業取締規則第22条の「宿屋飲食店及其他ノ営業者ト謀リ乗客ヲ誘引シ又ハ乗客ノ指示セサル場所ニ輓入ルヘカラス」と、第31条の「何等ノ名義ヲ以テスルモ乗客ニ対シ定額外ノ金銭ヲ請求スへカラス」に明らかに違反している。

すべての車夫が違反行為を行っていたとは考えられないが、不良車夫の問題は克服すべき課題となっていた。

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