横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第130号
2015(平成27)年9月30日発行

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その音、奇妙なり
―横浜・西洋音楽との出合い―

嘉永7(1854)年、ペリーの横浜上陸を一目見ようと集まった人々は、艦隊に随行した軍楽隊の演奏する音楽を初めて聴きました。幕末に来日した外国人が記した書籍には、西洋音楽を面白そうに聴く日本人の様子が記されています。

図1 山手公園野外音楽堂における英国陸軍軍楽隊
“The Far East” 1871年7月1日号
図1 山手公園野外音楽堂における英国陸軍軍楽隊 “The Far East” 1871年7月1日号

ペリー来航を機に、日本は近代国家への道を歩み始めますが、欧米の諸制度・技術・文化等の受容と普及は大きな課題であり、西洋音楽もその一つでした。

日本における西洋音楽の伝習は、横浜居留地に駐留する英国軍楽隊により始められました。明治2(1869)年、英国陸軍第一〇連隊第一大隊のバンド・マスター、ジョン・ウィリアム・フェントン(John William Fenton, 1831〜1890) が、横浜の妙香寺で薩摩藩士に軍楽を教授しています。その後、彼の弟子を中心に、日本の陸海軍の軍楽隊が作られました。陸海軍の軍楽隊は、さまざまな式典で演奏を行い、西洋音楽の普及に貢献しました。

一方、幕末に来日した宣教師たちは、布教のため聖書の翻訳を行うとともに、より多くの人が賛美歌に親しめるよう日本語の歌詞を考案し、明治5(1872)年に最初の日本語の賛美歌がつくられました。

明治5年に施行された学制では、当初、音楽教師の不在のため、音楽の授業を実施することができませんでした。これに対して、横浜居留地のミッション・スクールでは、主に米国からの女性宣教師により音楽教育が行われています。

明治10年代後半になると、文部省音楽取調掛によって唱歌の教本が作成され、公立学校における音楽教育も次第に実施されていきます。唱歌の内容も、外国の曲に日本語の歌詞をつけていた段階から、次第に日本人による作曲へと変化していきました。こうした音楽教育の浸透の結果、一定の年齢層の子どもたちからは、西洋音楽の音感や知識を持つようになりました。

また、教育や広報の手段としてさまざまな唱歌が作成されたり、日清、日露戦争時には学校や地域を単位として少年音楽隊が編成されています。

そして、明治42(1909)年、横浜市は、開港50周年を記念して、現在まで歌い継がれている日本最古の市歌である、横浜市歌を制定しています。

本展示では、西洋音楽伝来の地横浜における、洋楽の受容と普及の歴史を、様々な資料を基に紹介します。

(斉藤 司)

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