横浜開港資料館

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「開港のひろば」第130号
2015(平成27)年9月30日発行

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資料よもやま話
武田久吉と日本山岳会の仲間たち
―「武田家旧蔵アーネスト・サトウ関係資料」他から

武田久吉は、幕末に19歳の若さで来日し、最後は駐日、駐清公使を務めたイギリスの外交官、アーネスト・サトウの次男である。

久吉は、1883(明治16)年に東京に生まれ、東京府立第一中学校(現都立日比谷高等学校)、東京外国語大学に学んだ。1910(明治43)年に父サトウの勧めもあってイギリスに留学し、帝国理工科大学、バーミンガム大学、王立キュー植物園で植物学を学んだ。13年に一時帰国するが直ぐにイギリスに戻り、15年12月まで留学生活を送った。

図1 イギリス留学時代の武田久吉 1910年
図1 イギリス留学時代の武田久吉 1910年

翌16年に帰国後、理学博士の学位を取得し、京都帝国大学、北海道帝国大学(18年までは東北帝国大学農科大学)、九州帝国大学の講師を歴任した。

久吉はまた、1905(明治38)年10月14日に創立された日本山岳会(当初は山岳会)の発起人7名のひとりとして知られる。山岳会は、東京府立第一中学校生徒を中心に結成された日本博物学同志会の活動から生まれたもので、同会の一支会として出発した。イギリス国教会宣教師として来日し、日本各地での登山を趣味としていたウェストンの勧めもあり、小島久太(烏水)や久吉たち7名が創設したものだ。小島は横浜と関わりがふかい。Y高出身で、横浜正金銀行に勤務するかたわら文芸評論家として、また浮世絵や版画収集家として知られる。他に、城数馬・高頭仁兵衛・高野鷹蔵・梅沢親光・河田(山川)黙がいる。城が41歳、小島が32歳、他の5人は20歳代という若い組織であった。

久吉は、イギリス留学時期を除いて積極的に関わり、戦後は第六代会長を務めるなど、日本の近代登山史にも大きな足跡を残した。植物学の専門家として、また日本山岳会での活動を通じて大正期より尾瀬の自然保護に関心をもち、長蔵小屋の平野長蔵らと保護運動に尽力した。尾瀬が今日のように広く知られるずっと以前のことである。戦後は文化財保護審議会専門委員や日本自然保護協会理事などを歴任し、1970年には山に関する顕著な学術的業績をあげた研究者として秩父宮記念学術賞を受賞している。

図2 登山と植物研究を楽しむ晩年の久吉
図2 登山と植物研究を楽しむ晩年の久吉

植物学に加えて民俗学者、柳田国男との交流に触発され研究をふかめた民俗学、もちろん登山の分野でも多数の本を著した。『高山植物』・『登山と植物』・『農村の年中行事』・『原色日本高山植物図鑑』・『尾瀬と鬼怒沼』・『路傍の石仏』・『明治の山旅』などがある。

当館所蔵「武田家旧蔵アーネスト・サトウ関係資料」の中の久吉(書簡)と分類された一群には、このような久吉の経歴を反映して植物学や民俗学をはじめとする研究者、山岳仲間からの書簡(多数の絵はがきを含む)が約600通残されている。高名な植物学者、牧野富太郎の明治期からの書簡20通もある。武田家は千代田区富士見町にあったにもかかわらず、関東大震災や戦火をまぬがれていた。

山岳会発起人仲間からの書簡は河田(山川)以外の他の5名からのものが残っている。その他に大平晟・北沢基幸・辻本満丸・日高信六郎・木暮理太郎・槙有恒・松方三郎と枚挙に暇がない。

今回は、この約600通の中から次の山岳会創立者仲間からの3通を紹介したい。城数馬・小島烏水・高頭仁兵衛からの書簡である。

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