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「開港のひろば」第130号
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展示余話
人力車の盛衰
交通機関の対立
横浜市内の人力車営業者および車夫(輓子)の推移は下の【表】に示す通りである。定義は時代によって多少異なるが、人力車営業取締規則の第一条は、人力車営業を「輓子ヲシテ車ヲ輓カシメ又ハ車ヲ賃貸スルヲ以テ営業トスルモノ」、車夫を「車ヲ賃借シ又ハ人力車営業者ニ雇ハレ稼業ヲナスモノ」としている。また、第一三条に「営業者自ラ車ヲ輓クトキハ総テ輓子ニ関スル規則ニ従フヘシ」とあるように、営業者自身が人力車を動かす場合もあった。この営業者と車夫の差は、人力車所有の有無にあったと言えよう。
人力車や営業者、車夫の数を見ると、1907(明治40)年前後が人力車の最盛期であったが、その後、減少傾向に転じていく。これは路面電車の整備と無関係ではないだろう。そうしたなか、人力車を生活の糧とする人びとは、自らの生活基盤を守るため、競合相手である他の交通機関と激しい対立を繰りひろげた。
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※各年度の『神奈川県統計書』の「諸車」及び「取締ニ関スル諸営業」より作成。 |
1899(明治32)年8月、市会で路面電車敷設の議論が高まると、車夫たちはそれに対する反対運動を起こす。8月9日に住吉町の港座で行われた集会では、敷設に反対する車夫や馭者(馬車をあやつる者)が2,000人集まり、過激な意見を唱えたほか、翌日の市会では、多くの車夫が詰めかけ、騒擾事件に発展した。最終的にこの問題は、市会議員と車夫の代表者との間で協議が行われ、路面電車の工事を延期することで決着したが、同様の問題は後の京浜鉄道の敷設や鶴見川汽船開運会社の設立の際にも発生した。
一方、人力車と乗合馬車など、競合する業種間の対立は日常的に発生していた。例えば、1902(明治25)年1月には、平沼停車場で車夫と馭者との衝突が発生している。これは乗車交渉済の客を乗合馬車に横取りされた車夫が仲間30人とともに三台の馬車を破壊したもので、後に当事者たちは営業鑑札を取り上げられることになった(『横浜貿易新聞』)。
こうしたトラブルは1913(大正2)年に開業した保土ヶ谷の乗合馬車と人力車の間でも見られ、車夫たちは営業を妨害されたとして、乗合馬車の経営者に損害賠償を求めている(相模国・武蔵国各郡文書「催告状」、神奈川県立公文書館所蔵)。
新しい交通手段の登場や競合業種の存在は、車夫たちにとって死活問題であり、それに抵抗する動きを展開していった。だが、【表】にあるように、1923(大正12)年9月の関東大震災で多くの車夫たちが仕事を失った。その後、回復傾向に転じるものの、路面電車の拡張や自動車の普及によって次第に減少、さらに戦災を契機に横浜の街から姿を消していった。
(吉田律人)