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「開港のひろば」第130号
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資料よもやま話
武田久吉と日本山岳会の仲間たち
―「武田家旧蔵アーネスト・サトウ関係資料」他から
昭和20年の小島烏水書簡
終戦間もない昭和20年11月19日付、杉並区阿佐ヶ谷からの書簡【図4】である。前年より日本山岳会長を務めていた槙有恒から会長辞任の申し出があり、それについて久吉と相談したい、という内容である。また小島自身の体調がすぐれないことも記している。
拝啓帰京以来、お訪ねしようと思いながら疎開中の疲労が永く集って殆ど外出の気力もなく延び々々になっています。…本年老生は七十三才、動脈硬化、血圧過高、呼吸時々困難となりどうかすると寝ても起きても耐え得られないこともあるが、医師に言わせるとそれは神経性の発作だそうだ。帰京してから一度、止むを得ない用件で下町の某銀行へ用足しに顔を出した切りどこへも行かれないのがもどかしい。
久吉の前掲講演録には小島との衝撃的な出あいも披露されている。
小島烏水氏が「甲斐の白峯」という題で『太陽』に筆をとられたのが、われわれの目に入った時はまったく驚いた。…面白いのみならず内容が正確度は別として、地理を談じ動物を談じ植物を談じ、ありとあらゆる方面にわたっているので、一体この人の本職は何かということはわれわれには想像もつかなかった。
小島書簡の翌1946年、会長職は槙から松方三郎に代わった。小島は3年後の48年、75歳で亡くなる。