横浜開港資料館

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「開港のひろば」第130号
2015(平成27)年9月30日発行

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企画展
「日露戦争下の少年音楽隊」

市域の音楽隊

このほか市域における音楽隊としては、明治37年9月7日頃に設立された橘樹郡城郷村下菅田(現神奈川区)の「下菅田音楽隊」(鈴木登久治家文書)、詳細な年月は確定できないが鎌倉郡永野村(現港南区、『港南の歴史』昭和54年、199頁所収写真)や本牧町台(現中区)の「本牧町台青年団音楽隊」(『横浜・中区史』昭和60年、662〜663頁)などの事例が確認できる。

現在の横浜市立六浦小学校(金沢区)の前身にあたる三分小学校の沿革を記した『六浦荘村立三分小学校沿革誌』(横浜市立六浦小学校所蔵)の明治37年10月の記事には「本県ハ学齢児童ノ異様ノ服装ヲナシ楽隊ニ模擬シテ軍人送迎葬儀ニ参列スルモノアルコトヲ取締ルベキ旨、訓令セラル」とあり、日露戦争へ出征する軍人の送迎や戦死者の葬儀に参列して演奏するために、県下各地で学齢児童による楽隊が結成されたことがうかがえる。神奈川県はその存在が学校教育へ悪影響をもたらすものとして、父兄への教諭を行い楽隊を廃止すべき旨を郡・市・町村へ指示している。

県の訓令からも音楽隊は更に多くの地域で結成されていた可能性があろう。また、訓令の影響であろうか、松本家文書では明治41(1908)年1月付の「字費支払差引決算帳」にみえる前年の明治40年11月30日の「金壱円、本日鈴木千賀造横須賀へ入営ニ付田浦迄送ル、楽隊子供等へ弁当代」を最後に音楽隊に関する記事はみられなくなる。

市域における音楽隊の成立・終焉の詳細な経緯は不明であり、今後の事例の発掘・蓄積と合わせて課題としたい。

なお、伊東亨氏からは貴重な写真をご提供いただきました。また、『横浜市教育会雑誌』の所在と内容については相澤雅雄氏のご教示を得ました。記して謝意を表します。

(斉藤 司)

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