横浜開港資料館

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「開港のひろば」第128号
2015(平成27)年4月22日発行

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資料よもやま話
野沢屋と為替(かわせ)会社彰真社

中牛馬(ちゅうぎゅうば)会社・倉賀野河岸

明治9(1876)年6月1日、長野に彰真社が設立された。翌7月、彰真社は、中牛馬会社、須賀善衛、茂木惣兵衛の三者各々と約定書を結んでいる(「荷為換定約書写」長野市・倉石里美家文書/長野県史収集資料・長野県歴史館複製所蔵)。

中牛馬会社とは、信州で発達した「中馬」を前提に、明治5(1872)年に設立された陸上輸送会社である。中馬は宿駅で馬を替えることなく、「付け通し」で長距離の輸送をになった(中牛馬会社の実態や歴史的役割は、王慧子著「近代日本における陸運企業の形成過程」に詳しく、ネット上に公開されている)。約定書を結んだ中牛馬会社は、長野・上田・小諸・松井田・高崎各社。また、須賀善衛は上州利根川筋で最大の河岸である倉賀野河岸の問屋であった。

彰真社と中牛馬会社との取り決めにある商品は、生糸や真綿、巣殻繭(すがらまゆ)・太糸・生皮苧(きびそ)などの屑繭屑物、生糸原料の糸繭、呉服太物類、麻布・畳糸類、水油、石油。1駄40貫〜46貫で、いずれも150キロ以上となる。商品ごとにそれぞれ運賃が決められ、そして「右の諸荷物出発の日より倉ケ野河岸まで五日限りたるべし」として、長野〜須賀善衛店までの運送期限が定められた。

彰真社と須賀善衛との間の約定は、倉賀野河岸から東京堀江町三丁目の彰真社支店にいたる舟運についての取り決めで、品目別の運賃・日限は表1のとおりである。運賃は一駄あたり、生糸1円から畳糸23銭3厘までとはばがある。須賀は着荷後「直に出帆し」、生糸・薬用人参・呉服太物・真綿は「三日目朝着京」、水油「三日目切着京」巣殻繭・畳糸などは「五日目朝」「五日目」の着京と決められていた。

表1 品目別運賃・日限     倉賀野河岸〜東京堀江町
表1 品目別運賃・日限  倉賀野河岸〜東京堀江町

野沢屋と彰真社

慶応元(1865)年に出店した野沢屋東京支店は、『横浜商人録』(1881年刊)によれば「諸国地方商人衆横浜逓送荷物周旋並ニ為替金請払方兼両換営業」を業務とした。その場所は東京堀江町三丁目3番地であり、彰真社東京支店は野沢屋支店内にあった(中山浜次郎のご子孫である山田静夫氏・故中山幸雄氏からのご教示による)。

彰真社と茂木との約定は十二条からなるが、その第一条は決定的である。「彰真社はその地方に於いて生糸その外荷為替を取り組むときはその荷物はすべて横浜茂木惣兵衛へ向け運送いたすべきこと」。彰真社の荷為替がついた荷物はすべて茂木に仕向けられたのであり、彰真社の金融機関としての閉鎖性がうかがえる。そして他の条項は、荷為替の事務手続きや、売り込み不調の際の荷為替代金決済の取り決め、荷物の事故などの規定などであった。

このうち第六条は「この定約を以って運送したる為替付の荷物売却方は荷主の意にまかせ同店にて売却すべし」とある。生糸の売り込みは荷主の意思にしたがうことを明文化していた。茂木は定期的に生糸の「商況報告」を荷主に郵送した(図2)。その情報をうけて荷主は電報などをつうじて売り込みを指示したのである(図3)。

荷主は為替金の元利等を支払えば、別の売込商に商品を持ち込むこともできた。他の売込商の事情は不明であるが、野沢屋は、生糸売り込みのタイミングについても「仲介業」の立場を堅持したのである。

第十九国立銀行の設立

茂木との閉鎖的な為替金融機関であった彰真社は、横浜からの製糸資金を求める長野県の、とくに勃興しつつある器械製糸家らによって、早期に乗り越えられるべき存在であったと思われる。それは彰真社開業のわずか一年半後の明治10(1877)年11月、第十九国立銀行が、彰真社メンバーの早川重右衛門・黒沢鷹治郎・中山彦輔らによって上田に開業し、茂木もこれに株主として参画して、長野県を代表する地方銀行に発展させるからである。彰真社は第十九国立銀行の開業後も残ったが、明治17年自然休業となり、20年に別資本で再興。22年に信濃銀行となった。その意味で、茂木や早川・黒沢・中山らにとって彰真社は、銀行開業への踏み石であったのかもしれない。

群馬と東京・横浜をむすぶ舟運は、明治16(1883)年に日本鉄道の上野〜高崎・前橋間が開通したことで急速に衰えた。他方、長距離陸送をになう中牛馬会社は、その後も長野県内を中心に活躍し、今日の日本通運の前身である内国通運会社の陸運と競争しつつ併存して、昭和17(1942)年まで存続したのである。

(平野正裕)

図2 野沢屋糸方より生糸荷主にあてた「商況報告」 中山浜次郎文書・中山富太郎氏蔵
年不詳であるが、「諸国器械糸」の一括表記からみて、明治10年以前のものと思われる。 図2 野沢屋糸方より生糸荷主にあてた「商況報告」 中山浜次郎文書・中山富太郎氏蔵 年不詳であるが、「諸国器械糸」の一括表記からみて、明治10年以前のものと思われる。
図3 生糸荷主「上善」から「野惣」(野沢屋惣兵衛)あての電報 明治6年7月17日 当館蔵
「サンジウイチウルコトヨロシ」と売却金額の指示がある。 図3 生糸荷主「上善」から「野惣」(野沢屋惣兵衛)あての電報 明治6年7月17日 当館蔵 「サンジウイチウルコトヨロシ」と売却金額の指示がある。

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