横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第128号
2015(平成27)年4月22日発行

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展示余話
ミッション・スクール関係資料から
〜横浜英和学院所蔵資料〜

「ガールズ ビー アンビシャス! 横浜山手のミッション・スクール」展では、海外の伝道団より日本に派遣された女性宣教師・修道女により創設された、横浜の五つの女子ミッション・スクールを取り上げた。1870(明治3)年創立のフェリス女学院、1871(明治4)年創立の横浜共立学園、1880(明治13)年創立の横浜英和学院、1886(明治19)年創立の捜真学院、そして1899(明治32)年創立の横浜雙葉学園である。フェリス女学院は、「キダーさんの学校」として伊勢山で創設されたが、1875(明治8)年に山手に移転した。横浜雙葉学園の前身である横浜紅蘭女学校が、19世紀の末に山手で誕生した際、山手には前記の五つの女子ミッション・スクールがあった。その後、捜真女学校は1910(明治40)年に神奈川町中丸(現横浜市神奈川区中丸)へ、横浜英和女学校は1916(大正5)年に蒔田町(現横浜市南区蒔田町)に、それぞれより広い校地を得て移転した。

今回の展示では、それら5校より様々な資料を借用し展示させていただいた。フェリス女学院の学校規則としては最古の「フエリス学校〔最初の手刷り規則書〕」(1882年刊、フェリス女学院資料室所蔵)や、捜真学院の前身である英和女学校が、山手67番地にあった1887(明治20)年から1891(明治24)年の間に作成された「英和女学校規則」(捜真学院所蔵)など、貴重な資料を展示することができた。

横浜英和学院からも所蔵資料を借用し展示させていただいたが、同校資料については、主要な資料を借用し、目録を作成し全体像を把握した上で、いくつかの資料を展示に活用させていただく事ができた。同校が所蔵される資料の概要と出陳した資料を紹介したい。

横浜英和学院

横浜英和学院は、1880年、米国メソジスト・プロテスタント教会婦人外国伝道会より日本に派遣されたハリエット・G・ブリテンによって山手48番地に創設された。当初は男女共学の学校であった。その後校地を山手68番地、山手120番地に移し、1886年、男女共学を廃し、女子部は横浜英和女学校と改称して横浜居留地84番地(現横浜市中区山下町84番地)へ移転した。1889(明治22)年に校地を購入し再び山手244番地に移転し、27年間を同地で過ごした後、1916年に蒔田町に移転した。1938(昭和13)年には成美学園と校名を変更したが、1996(平成8)年、横浜英和学院と改称し、現在に至っている。

横浜英和学院所蔵資料

今回の整理では、同校資料を次の六種に分類した。点数とともに記すと次のようになる。(1)写真33点、(2)アルバム14点、(3)冊58点、(4)状649点、(5)ハジス先生関係貴重資料175点、(6)図書4点である。

横浜英和学院は、『九〇年史余話』(成美学園丘光会編 1970年)、『成美学園百年史』(成美学園編 1980年)、『成美学園とキリスト教教育 成美学園百十年誌』(成美学園編 1990年)、『横浜英和一二〇年』(横浜英和学院編 2000年)など周年毎に校史の編纂を行ってきた。そこに収録されている開校以降、山手に校地があった時代の写真の大半は、『英和女学校 参拾年のおもかげ』(英和女学校〔編刊〕 1910年、資料1)に収録されている写真である。本資料は横浜英和女学校が蒔田町移転前、山手244番地に校地があった1910年に作成されたアルバムで、山手120番地の校舎の写真(資料2)など37頁に全119枚の写真が収録されている。頁と頁の間に各写真の説明が記された合紙が挟まれており、写真の内容が判明する。蒔田への移転に際して学園資料が整理されたのであろうか、山手時代の文書類が少ないなか、本アルバムは貴重である。

資料1 『英和女学校 参拾年のおもかげ』
英和女学校〔編刊〕 1910年 横浜英和学院所蔵 資料1 『英和女学校 参拾年のおもかげ』 英和女学校〔編刊〕 1910年 横浜英和学院所蔵
資料2 山手120番地のブリテン・スクール
『英和女学校 参拾年のおもかげ』(英和女学校〔編刊〕 1910年)より 横浜英和学院所蔵 資料2 山手120番地のブリテン・スクール 『英和女学校 参拾年のおもかげ』(英和女学校〔編刊〕 1910年)より 横浜英和学院所蔵

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