横浜開港資料館

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「開港のひろば」第128号
2015(平成27)年4月22日発行

表紙画像

企画展
火保図と写真で読み解く、横浜外国人居留地

今回の展示で注目していただきたい資料は、第一には横浜外国人居留地火災保険地図(以下「火保図」と略す)であるが、それとともに、いくつかの貴重な古写真も公開する。当館が保管する平尾コレクションのアルバムに収められたものだ。調査の結果、アルバムの写真の撮影年は1892年頃と推定され、まさに「火保図」に描かれた街並みが写されているのである。ここではそのいくつかを紹介しつつ、「火保図」から明らかになった諸点について述べてみたい。

本町通り55番地付近

図1は本町通り55番地付近を写した一枚だ。中央の建物は、イギリス系貿易会社のコッキング商会である。幕末に来日したサミュエル・コッキングが開いた会社で、1885年頃から55番地に所在しており、機械・薬品・医療器具などを輸入し、薄荷と百合根を輸出していた。敷地内には薄荷の製造工場があり、「薄荷屋敷」の異名でも知られた。

コッキング商会の建物については、図2『横浜絵入商人録』の図などで概要を知ることはできたが、このように鮮明な写真は初めてである。

「火保図」と見比べてみよう。図3は「火保図」の五五番地付近の部分図だ。縦に走る道が本町通りで、右側に「NO.75」、左側に「NO.55」とある。図1中央の建物は、モノクロでは判別しづらいが、本町通りに面した55番地の下側の建物で、薄い色の四角で「II OFF」と書かれているものだ。これはこの建物が二階建てのオフィスで、外壁は漆喰であることを示す。図1では一見、石造りに見える。確かに建物の角には石が使われているが、外壁全体は漆喰の壁に筋目をいれて、石造り風に仕上げたものと考えられる。図2の絵では外壁は漆喰に描かれている。図1図2を比べてみると、二階の窓は4つで数は同じだが、一階部分に違いがある。『横浜絵入商人録』が刊行された1886年から写真が撮影された92年頃の間に、外壁などの改修工事が行われたのだろう。

また、目をこらすと、コッキング商会の先にある建物に、漢字の看板がかかっている。拡大したのが図4だが、「永義和洋貨」とある。これは56番地Aに所在した、中国系の永義和Wing Yee Wohである。この会社は広東省南海県出身の呉植垣(ごしょくえん)が1881年に開き、89年頃から56番地に所在した。美術工芸品の輸出入や一般雑貨の販売を行っていた。呉植垣は後に横浜在住中国人の商業団体の幹事をつとめるなど、華僑社会の重鎮となる。そして1914年4月に亡くなった際には、『横浜貿易新報』に写真入りで訃報記事が掲載された人物である。今回、店舗の写真と場所が初めて確認された。

ところで、2007年から08年にかけて、山下町地区の再開発(神奈川芸術劇場・NHK横浜放送会館の建設)にともない、旧本町通り55番地付近の発掘調査が行われた。そこから煉瓦の建物遺構、陶磁器、ガラス製品などが大量に出土した。その中にはコッキング商会で製造されていたガラス製品や、中国清朝期の陶磁器も含まれている。今回の展示では、それらのうち数点を神奈川県教育委員会よりお借りし展示する。

図1 居留地本町通り 55番地コッキング商会付近 1892年頃 平尾コレクション・当館保管 図1 居留地本町通り 55番地コッキング商会付近 1892年頃 平尾コレクション・当館保管 図2 コッキング商会 『横浜絵入商人録』(1886年)より 当館蔵 図2 コッキング商会 『横浜絵入商人録』(1886年)より 当館蔵
図3 55番地付近部分図 図3 55番地付近部分図 図4 永義和看板拡大図 図4 永義和看板拡大図

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