横浜開港資料館

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「開港のひろば」第123号
2014(平成26)年1月25日発行

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都発企画展
開港されなかった江戸
横浜都市発展記念館特別展・横浜開港資料館共催
「港をめぐる二都物語 江戸東京と横浜」より

「江戸御鎖」−幕府の外国人忌避

江戸には横浜開港とほぼ同時期に欧米諸国の外国公館が設置され、外交官が「首都」江戸に常駐を開始する。しかし幕府は江戸に外国人が居住することについて、条約交渉の段階から難色を示していた。開港後、外国人殺傷事件の発生をうけて、幕府は外国側に江戸退去を促し、外交官たちも文久2(1862)〜3年ころにはやむなく横浜に居を移すようになる。

元治元(1864)年3月、フランスの新公使ロッシュが横浜に到着、前公使のド・ベルクールは江戸において新公使と老中が会見することを求めた。幕府がこれに反対の意を示すと、フランス側は、江戸における会見が実現しないのであれば、「江戸御鎖にて外国との交際ますます悪しく」(「神港立合」横浜開港資料館五味文庫蔵、【図4】)と発言したという。幕府の態度を外国側は江戸を外国人に閉ざしていると見て、外国との交際に悪影響を及ぼすと指摘したのである。

図4 神港立合 元治元(1864)年4月2日 横浜開港資料館五味文庫蔵
図4 神港立合 元治元(1864)年4月2日 横浜開港資料館五味文庫蔵

このころ幕府が横浜の「鎖港」(閉鎖)を諸外国と交渉していたことは知られているが、それ以上に幕府は江戸を外国人から「鎖」ざそうとしていたのである。このような江戸への「外国人忌避」とでも言うべき幕府の意図も、江戸が幕末期に開かれなかった要因であった。明治時代以降、東京は築港と開港を志向するようになるが、幕末期のこの排外的な姿勢は対照的に見える。

なお、「神港立合」は目付・星野金吾が残した横浜における外交交渉のメモである。目付には、外国奉行等が外交交渉をおこなう際に同席して内容を監察(「立合」)するという職務があった。幕末期の目付の記録としては稲垣敏子解読『杉浦梅潭目付日記』(杉浦梅潭日記刊行会、1991年)がすでに知られているが、星野のこの記録も短いものではあるが、横浜における対外折衝の実際を知るうえで興味深い。

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