横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第123号
2014(平成26)年1月25日発行

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都発企画展
開港されなかった江戸
横浜都市発展記念館特別展・横浜開港資料館共催
「港をめぐる二都物語 江戸東京と横浜」より

遠浅の江戸

東京湾は浅い海である。観音崎−富津岬以北の平均水深は17メートルだが、東京に近づくにつれて水深はより浅くなる。

安政5(1858)年、日英修好通商条約をむすぶためにイギリスのエルギン卿は軍艦フュアリアス号で江戸を訪れた。エルギンに随行したウィリアム・ナソー・ジョスリンは「江戸の町に近づくと急に浅瀬になりましたので、町から2マイル(約3.6キロ)、水深3尋半(約6.3メートル)のところに投錨しました」(1858年8月13日付、大山瑞代「ナソー・ジョスリン書簡集」『横浜開港資料館紀要』17号、1999年。原資料は横浜開港資料館蔵【図1】)と手紙に記している。

図1 ナソー・ジョスリン書簡 1858年8月13日付
横浜開港資料館蔵
図1 ナソー・ジョスリン書簡 1858年8月13日付 横浜開港資料館蔵

埋立と浚渫のなされた現在の東京湾に干潟(洲)はほとんど見られなくなったが、幕末江戸の海岸には広大な干潟がひろがっていた。今回出展する東京都立中央図書館の「江戸近海測量図」(幕末期)には、江戸湾にひろがる洲(「隠洲」)が示されており【図2】、洲の存在が海からの江戸への接近を拒んでいたことが視覚的によくわかる。

図2 江戸近海測量図(部分) 幕末期
東京都立中央図書館特別文庫室蔵
図2 江戸近海測量図(部分) 幕末期 東京都立中央図書館特別文庫室蔵

このため喫水の深い欧米の大型艦船は、陸からかなり離れた水深のある海に碇を下ろすことを余儀なくされた。外国側の作成した江戸湾の海図には“Yedo Anchorage”(江戸の碇泊地点)が記入されているものがあるが(“Japan Islands. Nipon Bay of Yeddo”イギリス国立公文書館蔵、1864年)、その水深を確認すると4尋(1尋=1ファゾム=1.8メートル、約7.2メートル)から4尋半(約8.1メートル)ほどで、ジョスリンよりも少し深い地点を地図に記している。

本船が碇泊した地点からは、人や荷物を小船に乗せ替えて江戸の陸地まで漕いでいかなければならなかった(【図3】)。たとえばイギリスの駐日代理公使ニールの本国への報告には「われわれの艦は3、4マイル(4.8〜6.4キロ)沖合に碇泊するので、小舟で海岸までゆくのに1時間半ないし2時間はかかる」(1862年11月18日付。萩原延壽『遠い崖−アーネスト・サトウ日記抄−』一、朝日新聞社、1998年)とあって、本船を安全に碇泊させられる位置が陸上から遠く、陸へのアクセスに苦労していることをうかがわせる。

図3 エルギン卿の江戸上陸風景 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1858年11月27日号
横浜開港資料館蔵
図3 エルギン卿の江戸上陸風景 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1858年11月27日号

遠浅という地形は近代的な港湾都市としての江戸・東京の欠陥であり、江戸が開港されなかったひとつの要因であった。実際、外国側が江戸南郊の品川の開港を求めたとき、幕府は「遠浅にて舟付き宜しからず」としてその要請を拒絶しているのである(『幕末外国関係文書』21、東京大学史料編纂所)。

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