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「開港のひろば」第123号
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館長雑感
絹織物輸出商社、堀越商会のその後
横浜開港資料館館長 上山和雄
横浜では、よく知られている生糸売込商から発展した貿易商以外に、さまざまな商品の輸出入に携わった、多くの中小貿易商社が活躍していました。私は、平成3年に勤務先から海外派遣研究の機会を与えられ、米国国立公文書館に収蔵されている日系企業史料を閲覧し、多くの史料を収集することができました。その一つが堀越商会です。史料の大部分は、本店や各国支店、顧客との往復書翰でした。
堀越商会は、明治26年に東京本店、翌年にニューヨーク(紐育)支店を設置して絹織物・雑貨などの輸出に携わり、大正14年に本店を横浜に移した、最有力の絹織物輸出商でした。
平成初年、堀越商会は品川区五反田に本店を持ち、紐育にも子会社を持っていることが確認され、当時市史編さん室に勤務していた平野正裕当館主任調査研究員にお願いし、本社とのコンタクトを取りました。平野さんらは翌4年2月、自費でワシントンに来て、私の車で紐育に向い、2月22日に堀越紐育株式会社のオフィスを訪問しました。上の写真がオフィスの入り口で、左のドアには“WHOLESALE ONLY BY APPOINTMENT”と記されています。もう一枚の写真は、事務所隣の倉庫の陳列棚です。元のカラー写真では、色とりどりの商品サンプルが棚に詰められている様子がよくわかります。米国人女性と結婚して紐育支店を切り回していた上野道の子息ドナルド・上野氏と社長松井氏から、アルバムや新聞記事の切り抜きなどを拝見させていただきました。開戦によって紐育支店は閉鎖され、上野もエリス島に収監されました。しかし堀越は大戦中、中国・ベトナム・蘭印などに支店を設けて商社として存続します。敗戦後も輸入食料の見返り物資の集荷業務などを担当し、昭和24年には国内に6支店3出張所、社員212名というかなり大きな規模の商社でした。
山下町28番地にあった堀越ビルは米軍に接収され、本社は目黒区に移転しますが、27年には接収も解除され、横浜に戻ります。30年に紐育駐在員を派遣し、38年には堀越紐育株式会社を設立します。輸出だけでなく、33年から47年にかけてはリーバイ・ストラウス社の輸入総代理店、47年以降はH.D.LEE社の輸入総発売元になるなど、繊維関係品の輸出入を手広く営んでいました。横浜に事業所は残しますが、46年に本店を品川に移し、50年には堀越ビルも売却して横浜から撤退していきました。
堀越は輸出だけでなく、米国製品の輸入にも進出したため、40年代後半以降の安定成長・内需拡大の時代を生き延び、横浜を代表する貿易商社となりました。しかし、バブル崩壊は乗り切りましたが、平成11年には破綻・清算となりました。
敗戦後、飢餓線上にあった国民を救ったのは、輸入食料で、その見返り物資は繊維製品でした。繊維製品の集荷・輸出のノウハウを維持していたのは戦前以来の貿易商社であり、横浜ではそうした商社が昭和40年代までなお活躍していたのです。
毎号このページでは企画展のご案内をしておりましたが、現在当館はエレベーター改修工事で休館中のため、今号は「館長雑感」を掲載いたしました。