横浜開港資料館

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「開港のひろば」第123号
2014(平成26)年1月25日発行

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資料よもやま話
周ピアノに出会った人びと

2013年は、周興華洋琴専製所の創業者周筱生が関東大震災で亡くなって90年になることから、各地に残る同所製造の周ピアノの調査を行った。その詳細は『横浜開港資料館紀要』第32号(2014年3月刊行予定)で報告するが、ここでは三台の周ピアノとそれを所蔵されてきた方々を紹介したい。それはまた周ピアノの販路や顧客層を知ることにもつながる。

1 岩手・平井家の周ピアノ

岩手県盛岡市に隣接する紫波町の旧家に一台の周ピアノがある。持ち主は今年84歳になる平井篤さん。篤さんがこの周ピアノと出会ったのは、尋常小学校の2年か3年、昭和12年(1937)頃のことだ。

図1 周ピアノと平井篤さん
2013年10月撮影
図1 周ピアノと平井篤さん 2013年10月撮影

元々ピアノは篤さんの大叔父工藤全次郎が所有していたもので、篤さんがピアノを習い始めた時に譲り受けた。工藤全次郎は盛岡市内の先駆的開業医で、自らもピアノを習うなど、洋楽への関心が強かった。その背景には当時の盛岡周辺の洋楽事情がある。

大正初期から昭和初期にかけて、盛岡郊外の太田村(現盛岡市)に太田クヮルテットという弦楽四重奏団が組織され、洋楽の演奏会がたびたび開かれていた。その太田クヮルテットのメンバーの一人に原彬という人物がいる。彼は平民宰相として名高い原敬の甥で、原家第十代当主となるが、洋楽の普及と啓発活動に尽力した人物でもある。

この原彬については、横浜の周ピアノに勤めていた大塚錠吉が、大正4、5年頃から「盛岡の原サカリ君」が相当周ピアノを扱ってくれたと、その回顧録に記している。

工藤全次郎が周ピアノを入手した経緯は明らかではないが、おそらく洋楽を愛する盛岡の名士同士のつながりで、原から紹介されたのではないだろうか。

昭和のはじめ、盛岡市内にはピアノは数台しかない貴重品であったため、工藤家の周ピアノは岩手県公会堂での演奏会などに貸し出されたという。岩手県公会堂は昭和2年(1927)6月の落成だが、昭和8年(1933)2月までは自前のピアノがなく、演奏する団体などがピアノを持ちこんだという。

篤さんは岩手県立盛岡高等女学校に進むが、戦時色が強まるとともに、洋楽器であるピアノに触れることは憚られていった。戦争が終わるとその封印がとかれ、再びピアノを弾けるようになったのが本当に嬉しかったと、当時を振り返る。

篤さんはその後江戸時代から続く紫波町の豪商平井家に嫁ぎ、嫁入り道具として周ピアノも持参した。この平井家の邸宅は大正10年(1921)、時の首相原敬を招待するために新築された家である。当時の当主第一二代平井六右衛門は醤油醸造や鉱山経営で成功するとともに、衆議院議員と貴族院議員をつとめ、原敬の後ろ盾でもあったという。

図2 紫波町の平井邸
図2 紫波町の平井邸

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